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忠光農園を訪ねて

菊池義弘

大田(テジョン)からバスを乗り継ぎ、小一時間。忠光農園に停まる。降りた客は、私一人だけだった。
92年1月1日。冷たい灰色の冬空に、炊事の白い煙が立ち昇っている。鶏の匂いと、豚の鳴き声。凍った上り坂をコッコッと靴音を鳴らせながら、寒さにもう一度、身をすくめた。
忠光農園に建てられた、新しい老人ホーム。教会をはさんで、向かって左側の道を登った所に建っていた。昨年、10月に落成したこの家は、48坪の敷地に6世帯が入居できる夫婦舎が一棟。建物はまだ、外部が未完成なのだが、それでも現在、4世帯が移り住んで暮らしている。暖かいオンドル房の居間と台所が1ブロックとなり、それが細長く両隣に続いている様は、ちょうど「長屋」を連想させた。建設費用は韓国キリスト教救らい協会を通じてWCRP日本委員会(松禄神道大和山・寄付)が拠出した支援金から7割、忠光農園から3割の負担で賄われたという。これで縁側を整え、雨よけの外壁をしつらえれば、きっと立派な老人ホームとなるだろう。
金新芽さん夫婦も、秋よりこの家に住んでいる。
「寒いでしょう。まぁ、お上がりなさいな。」
一杯の柚子茶(ユジャチャ)をいただいた。隣部屋からはオモニが夕食のしたくをしている音が聞こえる。両手で杯を包んで暖を取りながら、金新芽さんから村の話をうかがった。

この村は、25年前に私が作り始めました。当時、朴政権ができて、ハンセン氏病の人たちを定着村の方へ行かせるようにしてしまいましたでしょう。しかし、その時、私は体が弱くて、目も悪かったし、金もなかったから、結局、小鹿島の方に移る事になったのです。そこで7年間、高等学校の先生をしたり、牧師さんの代わりに説教をしたり、日本の人が来たら通訳などをしたりしました。聖歌隊の指揮もしましたよ。
ちょうど、その時に、ここの村の人が来て、「今、この村では2、30名くらいが集まっているのだけれども、いろいろな圧力やら力関係やらで、ちりぢりばらばらになって、それでも何人かが残っているのだけれども、それも乞食のような生活をしています。」と。それで「ひとつ、来てはもらえないだろうか。」という話がありました。
もともと、この村はハンセン氏病の人たちが作ったらしいのですが。私は方々へよく行きましたよ。ある長老さんの所に行って、「ひとつ、村のために働いてくれませんか。」と言ったら、「あぁ、ダメだ。そんな望みなどない。将来性もない。」という返事が返って来てね。それから、若い人を行かせたのですけれども、それでもダメでした。この村については、政府の保健社会部の方でも、一番ダメな村になっていたのです。だから、それで誰も…。
ここは1800坪くらいで、土地も面積も小さいし、その当時、この前の道には自動車なども通りませんでした。だから、その時は家も、土で作った土壁なんかで、何軒か、ぽつんぽつんと…。だから、もう完全に荒野なのですよ。それで、金がないから、5、6世帯が乞食のような生活をしていました。
だから、私としては、そこに教会が建てられれば、という考えがありましたね。私たちがそこの土地に居を定められるという事は、なかなか難しい事なのです。やはり周囲が、地域社会が許しませんから。その当時、国家で作った定着村などは、周囲から集団襲撃などを受けて闘っていました。その中では、非常に大きな事件もあったくらいです。
たとえ患者たちが治療を受けたとしても、そういう所に村を作るというのは許されないのです。だから、集団襲撃を受ける。ここも集団襲撃を受けたらしいのですが、何人かがね、初め…。
しかし、とにかくそこに居を定める事ができている。だから、いったん自分たちが手に入れる事ができたその土地をリーダーがいないばかりに、ちりぢりばらばらとなって失ってしまう事になれば、それは私たちにとって大変な不幸であると、そう考えました。ですから、「一度得た、その土地を失ってはいけない」という強い考えが、私の心を決めた一つの重要な原因になっています。
それから、将来性がないとは言われましたけれども、私が見たところでは、村の周囲に消費都市がたくさんあるでしょう。清州(チョンジュ)とか大田(テジョン)とか。畜産には、それが良いのです。それに、ここは水が良いでしょう。そして、今は自動車が通らなくても、何年か経てば交通も良くなるだろうという事。それらを見通して、結局、私が乗り出す事になりました。私が行って、教会を建てて、人々を集めてみようと…。その間には数多くの苦労がありましたけれども、家内がよく手伝ってくれました。
私が一番初めにこの村に来たのは1977年になります。その時は自動車がないから、プガンで降りて、そのままここまで歩いて来たのです。家内と一緒に、重い鞄を下げてね。この遠い道のりを歩いて来たら、彼女が、「どうして、こんな所に連れて来るのか」と言って、もうそのまま、そこに座ってしまうのです。
それで、ここに着いてから5、6世帯の人たちと一緒に教会を作り始めました。私は定着村を、ずっと巡礼して回りながら、1万ウォンやら5万ウォンやら、お金を献金してもらって、それで教会を建てました。その当時建てた古い教会の建物も昨年、壊しましたけれど。そして、私が伝道師となって、一年半くらい説教をしましたけれども、それから人々がたくさん集まって来ましたね。
本当は、私が乗り出すと言ったら、後でわかった事なのですが、「なぁんだ、目くらのくせに・・・」とか、何か、こう、本当は失敗すると思っていたらしいのです。しかし、とにかく教会は建てられ、人々は集まって来たわけです。彼女はいつも一生懸命に、集まって来る人々を食事でもてなしてくれていました。それから15年が経ち、今、このような村。だから、今とその当時の村の様子は、全然変わっているでしょう。
FIWCがその次の年の1978年に来たから、14年くらい前でしょう。私はここで一年半くらいいて、他の所へ行って来たのですけれども、それから「ノナエチプ(韓国の交流の家)」を考え始めて、何年かの後に、柳川さんたちとの縁で、それが建てられ始め、今までずっと続いているわけです。

ここで、私はこの村に住むチョン・オクファンさんにも聞いてみました。
Q:「定着村では、なぜ特に畜産を営まれているのですか?」

私(チョンさん)が畜産を始めたというより、先輩たちが前に始めていたのです。畜産というのは、あまり重労働ではないでしょう。治療のためにも、それがいいのです。じっとしているよりもね。それから、軽い労働が物理治療になっているという点もあります。そして、もう一つは、畜産というのは正直な仕事、ウソがつけない仕事なのです。働いたら、その分だけ結果が出る。だから、普通の商売だったら、利益を残すために原価よりも値段を高く付けるでしょう。しかし、これは市価に合わせて、そのまま売るのですから、正直な仕事です。それと、畜産は失敗もあるのですが、普通の月給よりも金回りがいいのです。それに自由職です。人に頭を下げたりしない。
健康な人なら、イザとなれば何でもできるでしょう。自分の実力があれば、労働もできるし。しかし、私たちはできないのです。だから、これが私たちには一番良い仕事なのです。また、信仰生活にも良い。日曜日も自由に守れるし、神様への献金も正直に捧げられるし、組合などを組織化すると、いろいろ行動的な便宜があるしね。

再び、金新芽さんが語りました。

村の仕事については、今は全然していません。初めの頃は、教会も村の方も、私一人がやっていましたけれども。チョン執事などは、若い22、3歳の頃、私が来る少し前に先発隊としてやって来て、非常に苦労しましたよ。今は子どもたちもできたし、畜産の方も大きくなって、経済的に一人前になりました。
現在、この村は50世帯。鶏は20万匹から25万匹います。豚も4、5千頭くらいいます。それで、一年間のエサの飼料代だけでも23億ウォンかかるのです。だから、定着村の事では、もっと・・・、まぁ、今でも地域社会の反対もありますしね。例えば、教育の問題などで、やはり。その地域社会で、子どもたちが一緒に勉強したがらないのです。だから、その時は、多くの定着村などでは、分校が建てられたのです。今でもそれが残っている所もありますよ。ですから、分校が建てられたら、やはり、いろいろな問題があるから、ここでは、できれば分校は建てないで、そのまま一般の学生たちと地域社会の中で勉強して行けたらという、そのような希望を持っていたらしいのです。しかし、なかなか許されませんでした。
そんな中、たまたまFIWCがキャンプに来まして、その時に郡守さん始め、いろいろな人たちが来て、他の村の女性合唱団なども来てくれたりしました。その時は、私もこのオルガンで「小舟の歌」などを歌ってあげたりもしましたけれども。それで、その時、その女性合唱団の人たちが練習の時には、ぜひ私に来てくれ、と言ってね。そういう事もありましたが、彼らが、学校の父兄会の幹部でした。それで、教会の方と協力したりしながら、なんとか私らの村の子どもたちの共学がスムーズにできました。
今は、あまり問題はないのですが、それでもまだ、子どもたちの間では地域社会の中で、この村を一つの色目で見ていますね。
もちろん、全部がそうではないのですが、やはり、そういう、いろいろな陰があるのです。その陰があるから、子どもたちの心の中にもその陰が、やはりあるのですね。「どうして、私たちがここに住むのか」という、そういう話などが、子どもたちの口から出て来るのですよ。やはり、地域に住む子どもたちが、自分の親たちから聞くのでしょうね。ここはどういう村だ、とかをね。
しかし、ここのプガンなどは、とても小さな町ですが、そこの商売の3分の1くらいの売れ行きは、ここで賄ってあげているような形なのです。だから、いろいろな鶏舎やら建設資材やら材料やらを持って来るでしょう。これは大変なものですよ。大部分の店の売れ行きの3分の1.絶対的な信用を持っているのです。それで、いつも現金払いでなくて、もう、いつでも持って行きなさいという形で持って来るのです。だから、これはもう信用を得ているわけなのです。
地域社会も、そのような実利の面では非常に良くしてくれるのですが、その一方では、まだまだ昔のそういう考えも残っていて、いろいろな差別が、やはりあるのです。

Q:「それについて、チョン・オクファンさんは、どう感じていますか?」

自分自身は差別されていると感じて生きていますよ。
それは、やはり、心の中にこびり付いている、ひとつの「ひけめ」ですね。そういう「ひけめ」自分自身が捨てられないのです。
例えば、風呂などに行くと、医学的には、これは伝染病ではないと知ってはいても、やはり、人々に何かすまないような感じがするとかね、嫌がる人がいるのではないかとか…。そういう「ひけめ」がなかなか自分から離れないのです。

金新芽さん:「やはり、この村の人たちを完全に理解するというのは、そのような離れられない『ひけめ』というのが、いかに根深いかというのをわかり合うまでは、なかなか難しいのではないでしょうか。」

隣に座っていたユン・ボンスクさんが、その言葉に口を添えた。
彼女は忠南大学の2年生。冬休みの間、この忠光農園に住み込みながら働いている。

「私がここへ来た目的の一つは、何か仕事をやるためとか、ボランティアとかではなく、ただここへ来て、そして、住みながら、自分の正しい生き方なり考え方について考えてみたかったという思いがあったためです。それで、この村に来ました。こちらの人々は、皆々が『陰』を持ちながら生きているでしょう。その陰を持って生きている人々の中に入ってみながら、自分の姿勢や物の見方、本当の生き方などを見つけてみたかったのです。」

Q:「今の若い人たちの風潮に対して、こういう生き方ではいけないと思っているのですか?」

ユンさん:「韓国の大学生たちは、もっと物事に対して、よく考えるべきだと思います。自分の今いる現実に安住している形、それが一つの優柔不断を生むのでしょう。だから、何事も、もっと執念を持って探求すべきであるし、もっと徹底した生き方が必要であると思うのです。」

Q:「半月の間、この忠光農園に住んでみて、自分の中で何か変わりましたか?」

ユンさん:「ここに来てから3週間くらい経ちましたが、私はいつも『人を理解する』という事を心がけ、努力して来ました。私の友人などは、ここの人々だけではなくて、もっとここ以外の人々とも付き合うべきだと言っているのですが。『理解する』だけではなくて、『人を知る』という事が、もっと大切だと。同じ痛み、同じ苦労を共にするというような、そのような『人を知る』ための深さまでもわかり合うには、いろいろと難しい点がある事を感じています。今までの自分は、わかっていなかった。わかったとしても、やはり思想的に頭だけでわかっていたんだというような気がしています。例えば、バスに乗ろうとする時、他の村の子どもが、この村の子を押しのけたりする。生活を共にして、そのような体験を目にし、耳にする時、今まで頭だけでわかっていた事から、少しは経験を通して感じ始められるようになりました。」

これからプガンの町まで買い物に出かけるというユンさんと一緒に、バス停まで歩いた。
「ジョナフェ(忠南大学のサークル)の友人から紹介されて、ここに来たのだけれど、このバス停で降りて、初めて村の入り口に立った時は、もう、どうなる事か・・・、と不安でたまらなかったわ。」
そう言って、笑顔を見せた。
バスがやって来た。

[菊池義弘、1992年1月]

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