林志明さん © Xin Wai Keung |
林志明さんは1929年広東省南部の貧しい小作農の家庭に生まれました。8才の時にハンセン病と診断され、広東省東莞の沙環療養所に送られます。お母さんの心づくしの綿入れを着て、小舟に乗って療養所に入所するところから彼の苦難の人生が始まったのです。
私が林志明さんに始めて会ったのは、1996年3月26日、広東省漢達康福協会※1(通称:ハンダ)の設立集会でした。14省から集まった回復者の代表と保健当局や支援の団体が、一つの会場で顔をあわせ、同じホテルに泊まり、同じ食卓を囲んだ、画期的な集会でした。林志明さんは広東省の代表の1人として参加していて、同志の孔豪彬さんと一緒に、なんと、創作オペラでハンセン病の苦難の人生を語ったのです。孔豪彬さんが楽器風に合いの手を入れ、林志明さんが語りを担当し、社会への強烈な訴えに満ちたドラマチックな物語を語ったのです。後で見せてもらった原稿は、薄い便箋のような紙に、力をこめて書かれた文字がびっしりと並んでおり、文字の横には、伴奏用でしょうか、いろんな符号が記入されていました。
林志明著「苦難不在人間」 |
あとで知ったのですが、林志明さんはすでにその前年の1995年に、自らの体験を記録した、500ページ40万字にのぼる『苦難不在人間』を完成していたのです。1999年広東省で出版にこぎつけたこの長編自伝は、1930年代から革命と解放、さらに文化大革命と現代中国の流れを背景に、林さん個人と社会との格闘を描いた大河小説で、広東省で大きな反響をよび、香港でも出版されました。
林志明さんの凄いところは、これだけでは終わりません。現在ハンダの理事兼副事務局長に加えて、「ハンダ通信」の編集者として自ら取材、執筆するほか、各地に残るハンセン村を訪ね、文字通り見捨てられた環境で生きる人々を励まし続けているのです。林さんの飾らない筆で、1950〜60年代に200人〜300人を収容する隔離の施設として作られた療養所や村々が、居住者の減少、高齢化、障害悪化で困難の度合いを増している様が次々に明らかにされています。
『苦難不在人間』の出版で約13000元(約20万円)の印税を手にした林志明さんは、なんとその全額をハンダに提供し、「愛の心寄金」を創設したのです。「愛の心寄金」は中国各地のハンセン村で、自らの労苦をいとわずに村人の生活向上に尽くしている、隠れた功労者を何人も発掘し、その努力に対し、一人500元(約7500円)の奨励金を与えています。この奨励金はさらに多くの村人の幸せのために使われるのです。
林志明さんによる絵と書(笹川記念保健協力財団所蔵) © Lin Zhi Ming 2000 |
2003年3月11日、ハンダ主催の「国際尊厳の日」集会のあと、林さんの住む太和療養所を訪れました。「あなたの部屋をお訪ねしたいのですが」というと、「どうぞ、どうぞ」と奥まった2階建ての居住棟の2階、間口約2間、奥行き7〜8メートルくらいの部屋に案内されました。部屋にはベッドが3つ並んでおり、林さんの「住居」は、真中の一台のベッドだったのです。身軽な生き方を象徴するように、すっきりと整頓されて何もないベッドの横に小さな白い箱型の冷蔵庫が一つ。唯一他の人たちとの違いでした。夏の暑さの厳しいこの土地の生活にほんの少しの潤いをもたらすのでしょう。その場で林さんに、夢を聞いてみました。「私の本が日本語や英語に翻訳されること。そして、出来れば日本に行ってみたい。」※2白髪の増した5部狩り頭に、いつもの人民服すがたの林志明さんは、小柄な体を縮めて、はにかんだような素敵な笑顔で答えてくれました。
[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2003年、原典:「青松」]