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ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島

治療

クリオンへの隔離が始まってから数年は、有効なハンセン病治療薬はなかったため、治療は、傷口の手当てをするくらいでした。しかし大風子油が有効であるというニュースが流れると、この経口投与が始まりました。1912年には大風子油の治療が始まり、経口から注射による投与に変わっていきました。

大風子油による治療が効果を表してくるようになると、全患者の強制隔離はあまりにも酷い政策だったのではないかという批判が、再燃してきました。1935年には、軽い症状のみの人は、自宅での治療を可能にする条例が提案されました。これは可決されませんでしたが、フィリピン国内に湧き上がった、強制隔離への批判のメッセージを、アメリカ統治政府も、もはや無視することができなくなりました。当時の総督フランク・マーフィーは、ハンセン病問題を検討し協議する委員会を設置しました。この委員会は、地域レベルの治療センターを開設することにより、入院している人でも、簡単に家族に面会ができるようにすることを推薦しました。この提案に従い、1936年には国内に3つの療養所が設立されました。この前年までは、毎年約800人がクリオン島に送り込まれてきましたが、1936年には、この数が激減し240人程度に陥りました。

フィリピンの経済状態が悪化したことにともない、1931年以降、クリオンの予算は減少していきました。1933年の経済恐慌の際には、これまでの予算のほぼ半額に押さえ込まれています。これにより、無料で供給されていたサービスの多くは中断されました。

事態は戦争の到来によって悪化しました。クリオンに貯蔵されていた食料は、日本軍に取り上げられました。日本軍がクリオンにやってくる前に逃げ出そうと、多くの人が大小問わずボートに乗って近隣の島々に向かいました。たどり着く前に亡くなった方も、日本軍に見つかって殺された人も少なくありません。

クリオンの医者も大半が、クリオンを去りました。その中、2人の医者が病気や、居場所がなくクリオンを離れることができない人のために、クリオンに残る決断を下しました。病理学者のホゼ・ノラスコと、レオナルド・ウッド記念財団のアメリカ人の病理学者、ハーバード・ウェイドでした。病気のために動くことができない人たちは、病院で尼僧に介護され、動くことができる人たちは、病院から離れ農地として使われていた土地で狩猟や農業を続けて生活をしました。

健康な人たちはクリオンを去っていったので、戦争前には約6,000人が住んでいたクリオンに残ったのは、わずか2,000人弱となりました。戦争がはじまり、死亡率は急上昇しました。戦争最初の1年だけで、700人が死亡しています。原因は栄養失調と、医療器具の不足でした。

1945年には戦争のために閉鎖されていた学校の再開を始め、様々なクリオン再建のための活動が始められました。大風子油での治療は大戦後は中止され、その代わりにスルフォン剤での治療が始まりました。クリオンではスルフォン剤はあまり手に入らなかったため、使用する人の数はあまり多いものではありませんでした。

1955年に入ると、ハンセン病対策活動は患者の隔離治療から、積極的な早期診断・早期治療に変更していきました。

戦後には食料の配給が再び始まりました。衣食住が完全に無料で提供され、税金もかからない生活は、精神的に充足を与えましたが、同時に、クリオンを追い出されては困ると考えた人たちが、敢えて病気の治療を行なわなかったり、また家族に病気を感染させたという話もありました。

様々な環境や理由があったことではありますが、クリオンの住人の中には、自分たちで道を切り開くより、簡単に慈善にすがれるのであれば、施しにすがって何が悪い、と考えた人たちも少なくなかったようです。クリオン島は長年にわたり、「手紙書き」という職業で有名になりました。これは、世界各地の団体や個人に手紙を出し、自分たちの窮状を訴え、寄付を募るのです。寄付を依頼する手紙は、実によく書けているものが多くありました。あまりの悲惨さに、読む人が寄付せずにはいられないような内容です。

現在でもクリオンに住んでいる長老の一人はこう言っています。

「いろんな人が、辞書を片手に手紙を書いたものだよ。宣教師の書くような手紙を手本にしてね。あまりにもたくさんの人が手紙を書いたものだから、誰がどこの団体に出すなんて、住所の取り合いになったこともあったね。本当に信じられないかもしれないけど、日がな一日、手紙を書く以外はまったくなのもしない人もいたよ。郵便局の人も関係していたくらいだったよ」

家族との再会

1974年には、新しい条例が可決しました。これまで離れ離れになっていたクリオンの島民と、故郷に残してきた家族が、再び一緒に暮らすことができる日がやってきたのです。これ以降、ハンセン病にかかっていない家族も、クリオン島に暮らすことができるようになりました。

諮問委員

コロニーのトップは常に医者でした。コロニーが大きくなるに従い、その責任も大きくなっていきました。病院管理だけではなく、市長でもあり、裁判官でもあり、法律家でもありました。いわば、クリオンにおける「首長」のような存在でした。結婚の認可から、闘鶏の采配まで数多くの任務をこなしていましたが、5,000人を超える人が、フィリピン全土から集まっているクリオンでは、それぞれの地域性を無視しないやり方でなければ受け入れられませんでした。そこで、クリオン諮問委員会が開設されました。この委員会は10人の回復者から成っています。10人はそれぞれ10の地域をカバーし、それぞれの地域出身者の陳情を、院長に伝える役目を果たしていました。18歳から60歳までの男女に選挙権が与えられました。積極的な選挙活動が行なわれ、委員は2年ごとに、その地域の人たちによって選出されます。

社会



奄美和光園の謙新雄さんと政子さんの支援のおかげで、クリオンの学校は必要な教育設備を購入することができた。また謙さんご夫妻や、その他多くの日本の支援者のおかげで、多数のクリオンの子供たちが学校に通っている © Hosino Nao

クリオンには様々な地域からの人が収容されてきました。ときには外国籍の人もいたようです。アメリカ人、中国人、日本人もいました。この小さな島では、50もの言語が話されていたこともあります。

普通の日には、島内に住む人たちは魚釣りや農作業を行ないました。もともと農耕が主要な産業であった少数民族は、島内にトウモロコシや野菜を栽培しました。また魚釣りや、養豚を行なった人たちもいました。

クリオンの人たちは、大きな食堂で全員が食事を共にしていました。食堂まで行くことができない人たちには、食堂から食事が運ばれました。しかし人数が増えるにつれ、調理に必要な薪の数が不足するようになり、出される食事に対する不満が高まりました。このため、全員が集まって食事をする方式は取りやめになり、自分で調理したいという希望がある人は、食料を持ち帰るようになりました。

米、牛乳、コーヒー、砂糖、塩、缶詰などはマニラから輸送されました。これ以外に療養所に住む人たちや、島内に住む人たちが組織した団体が育てた豚や、釣ってきた魚が出されました。

娯楽としては日曜日に開催された午後のコンサートがあります。男性も女性もみんな着飾り、才能豊かな回復者による音楽を楽しみました。また、日曜日には闘鶏も盛んに行なわれていました。

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Culion Island
[原典:Culion Island(クリオン財団発行、2003年)、星野奈央(笹川記念保健協力財団)/訳、2006年7月13日]
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