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ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島

クリオン島はマニラの南西320kmに位置する

療養所建設の開始

クリオン島の住人たちは、政府からの土地明け渡しの要求におおむね協力しました。1905年には、クリオンらい病患者定着コロニー建設のための条例が制定され、建設が始められました。

建設期間中、フィリピンの政治家からはハンセン病患者の隔離に対する強固な反対の声が上がっていました。医療面からは、隔離がハンセン病根絶につながるものではないこと、経済面からは建国まもないフィリピンでは、アメリカの資本ではなくフィリピン自身の資本による巨大コロニーの建設ならびに運営は不可能であることに基づく批判でした。

しかしフィリピンの隔離政策が見直されることはありませんでした。ハイザーは当時を振り返り、こう記しています。

「クリオンの問題は、私が在職中に直面した中でもっとも困難を極めた。よもや、あれほど難航するとは考えていなかった。…考えられる限り、ありとあらゆる社会的問題が起こった。家屋や病院の建設だけではなく、患者以外が住む場所も確保されなくてはならなかったし、道路や下水道、娯楽設備や郵便局も整備されなくてはならなかった。治安、条例、銀行、手紙の消毒までありとあらゆる問題があった。
建設現場では、腕のいい整備士をこの隔離の島にとどめておくことは難しかった。何日かで島を出てしまう者もいたし、島に残る者は多くの場合、技術がなかったり、大きな失敗をやらかすような者だった。あるとき、らい病患者のグループが船に乗って、クリオンにやってくるというニュースを聞いただけで、300人もの労働者が遠く、安全と思われるところまで逃げてしまったこともあった。
遅れは恒常的だった。電報もなく、郵便も3週間に1度しか届かなかった。また、工事に必要な材料を持ってくる輸送船は、港の場所がよく分からず、遠くに船を泊めてしまい、小さいボートで荷物を運ばなくてはならないこともあった。たった一つのネジが届くのに4、5ヶ月かかったこともある」

初期のクリオンの様子。「バンカ」と呼ばれる手こぎボートは、患者や回復者が漁などに使っていた

問題は尽きず、批判の声も多くありましたが、クリオン島の療養所は1906年に完成されました。患者のための寮のほかに、400人の職員のための居住区、道路、小道、映画館、市役所、学校、水道、貯水池、下水道、港、総子、食堂、郵便局、見せ、ごみ捨て場が整備されたコロニーの誕生でした。高台にあったカソリックの教会も修理された。また公衆トイレや墓場まで、まさにありとあらゆるものが完備されたコロニーでした。

1906年3月半ばには、クリオンに最初の役人が到着しました。第1代所長のチャールズ・F・デ・メイと、第1代牧師のマニュエル・ヴァレスです。デ・メイについては、1906年に尼僧と最初のハンセン病患者の第一陣を迎え入れ、そして翌年にクリオンを去ったという記述が残っているだけです。デ・メイはほとんどの時間を、クリオン療養所と入り江をはさんだ対岸の村で過ごし、療養所を望遠鏡で眺めていたと言われています。

収容の始まり

1906年には合計約800人がクリオンに収容されました。ほとんどの人が、クリオンに死ぬためにやってきたのです。最初のグループが収容されたのは同年7月4日でしたが、それから年末までのわずか数ヶ月の間に800人のうち1/3が死亡しました。死亡原因は長年にわたる栄養失調などと考えられています。

フィリピンでのハンセン病患者の隔離を徹底したのは、1907年9月12日に通過された法令1711でした。隔離対策に関する責任は、保健省長官ハイザーに委ねられることなりました。フィリピン全土でハンセン病を疑われる人を逮捕、拘留、検査し、ハンセン病と診断された人を治療または隔離のために収容するという、隔離政策を遂行するため、政府のすべての権力を使うことを許可した法令です。

ハンセン病と疑われた人たちを連行する役目をおったのは、それぞれの地方の保健検査官でした。このため保健検査官は地域で、もっとも恐れられた政府の役人となりました。

保健検査官として9年間勤めたロレンゾ・タボラダは後年、その仕事をこのように記述しています。「襲われ、意識がなくなるまで殴られることもたびたびあった。反対に反抗するらい病患者の武器を取り上げ、撃ったり、刺したりすることも稀ではなかった」。実際、タボラダは闘争しようとした患者を撃ち殺したことがあります。しかし殺人犯として捕まるどころか、政府より「その勇気と、功績、効率的な行為を」表彰されました。

保健検査官が来るというニュースが伝わると、その地域に住んでいるハンセン病患者は追われている動物のように森の中に逃げ込み、ハンセン病の子どもを持つ親は子どもを倉の中に隠したと言います。

沿岸警備隊の輸送船はフィリピンの各地域を回り、全土で収容された200人程度のハンセン病と診断された人たちを、クリオンに連れて行きました。クリオン療養所が開設されてから、毎年500人から1,500人が収容されてきました。収容された人たちは、男女別に寮に住ませる計画でしたが、続々と増えつづける人数に行政側がついていくことはできず、全員を寮に住まわせる計画は頓挫しました。

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[原典:Culion Island(クリオン財団発行、2003年)、星野奈央(笹川記念保健協力財団)/訳、2006年7月13日]
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