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NIRVANA 008

写真詩集「津軽の声が聞こえる」
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前回は、楽泉園に在園中の桜井哲夫氏の詩と鍔山英次氏の写真が織り成す、フォトポエム「津軽の歌が聞こえる」をご紹介しました。桜井氏のご意向を受けて、多方面の方々にこの本をお送りしましたところ、楽しいお手紙をたくさんいただきましたので、その一部をご紹介します。

●中村一雄様(雲昌寺東堂、日本ペンクラブ会員、児童文芸家協会評議員)
ニルヴァーナ第1報で、「ビルマの耳飾り」の作者、中村一雄氏(筆名:武者一雄)をご紹介しました。北部ミヤンマーのシュエボー(サガイン管区)に小学校を寄贈され、何回か訪問されていますが、昨年末体調を崩されてご静養中とのこと。88歳になられて、「もう懐かしいミヤンマーへは行けない」と仰っていますが、「珍しい本をありがとう」と、御自筆のお手紙を頂きました。この本が日々のお慰めとなり、またお元気なご様子を拝見したいものです。[ニルヴァーナ編集部]

●伊藤秀朗様(Japan Leprosy Mission; JLM)
美しい本をご恵贈いただき、ありがとうございました。鍔山英次様のすばらしい写真と合わさって、見事なフォトポエムを創っていただけるなど、哲ちゃんは幸せな方です。大切に長く楽しませていただきます。
村田さんのハンセン病について、ベトナムの話を興味深く読みました。
数年前に、韓国のIDEA-Koreaが、自分たちが成功した養豚事業をベトナムの回復者にもと、子豚を50匹贈ったら、大きくして全部食べちゃったということを聞きました。その後当局との関係が取れなくて、中断せざるを得ませんでした。ごく最近も、知人がベトナムに行き、現地の神父様が回復者の5つの村で巡回ミサを行なっているのに同行しました。しかし規制が厳しくて、ご迷惑をかけるといけないと、二ヵ所だけ回って帰ってきたようです。ハンセン病は、医学ではなく、社会学の問題ですね。国の体制によってこんなにも扱いが変わる、特異なものですね。
日本の方々は、金の鳥篭に大切に大切に取り扱われているといわれます。野鳥とどちらが良いか、心の問題です。

●武 弘道様(埼玉県病院事業管理者)
写真も文章もすばらしく、感動を持って読みました。特に「あやとり」は、私の知人で気の合う中野鶴田町長が登場してびっくりしました。彼は昭和4年生まれですから、利造さんの弟利治さんの1つ下です。中野さんの家は長峰さんの1軒置いて隣であり、お父さんは先生だったので、2人を教えたそうです。2人が突然いなくなったので、友達はびっくりしたけど、再会の時まで何処にいるのか知らなかった由です。中野町長は、8期目、津軽の小さな町の町長ながら、その人柄と見識で、知る人ぞ知る、全国的にも良く知られた人物です。私は全国の自治体病院改革検討委員会で、二人で副委員長をしていたので、良く知っています。この詩集を読んで(見て)いたら、津軽に行って見たくなりました。また人のつながりの不思議も感じ、医者として恥ずかしくない生き方をしなければと思いました。高価な本、ありがとうございました。

●寺田紀彦様(寺田病院長)
すばらしいフォトポエム、当院のスタッフ一同に見せたいと思います。

●寺田一郎様(赤目観光ハウス理事)
「みごとな絵本をお送りいただき大切に拝見させていただきます。」
寺田氏は、ニルヴァーナ第2号でご紹介しました。療養所の方々と長い間、暖かい交流を続けておられます。[ニルヴァーナ編集部]

●真宗大谷派解放運動推進本部
当本部の貴重な資料として、充分に活用させていただく所存でございます。

限られた紙面ではご紹介しきれませんが、この他にもたくさんのお手紙を頂戴しました。拝見しながら、皆様の感動が伝わってくるのを感じました。[ニルヴァーナ編集部]

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今回の第8号は、一月遅れてしまいました。夏休みというわけではありませんが、世の中の新たな動きに対応する間に、時間が過ぎてしまいました。嬉しい動きもありました。主に開業医の方々などで構成する、在宅ケアを支える診療所全国ネットワークの総会が幕張メッセで開かれ(9月19、20日)、ハンセン病の紹介をさせていただくことができました。私たちは、退所者の方々が、心置きなく一般医療機関を受診できる日が来ることを願っています。

[楽泉園 並里]

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歴史に見るハンセン病の疫学

ハンセン病は、古くから地球上に存在したと考えられますが、残された文献の中には、しばしば他疾患との混同もみられるようです。インドには、紀元前6世紀に、ハンセン病に関する世界最初の文献があり、ここでは疾患が正確に記載されているそうです。紀元前5世紀には中国へ伝播し、続いて、韓国、日本などの極東地域に伝わったと考えられます。紀元前190年ごろの中国の文献には、臨床症状の正確な記載あるそうです。

欧州への伝播はギリシャに始まり、アレキサンダー大王の率いる兵士たちが、インド遠征からの凱旋とともに(紀元前327-26年)、ハンセン病を持ち帰ったと考えられています。その後は、商人、兵士とともに、徐々に地中海沿岸諸国に広がったと思われます。ローマ時代には、イタリアで一定の有病率が続いていたようですが、ポンペイでエジプトと戦っていた兵士の帰還に伴って(紀元前62年)、さらに蔓延したと考えられます。

後の十字軍の遠征(11世紀)も、欧州におけるハンセン病の蔓延に大きく関与したといわれています。ヨーロッパ中南部では、13-14世紀頃に、最も患者数が多かったようです。他の病気がある程度混同されていた可能性はありますが、最も多かった時期には、人口1000人あたり、3、4人にも達する有病率が推測されています。

しかしその後、特に英国では、急速に減少しました。その理由の一つに、1325〜26年の飢饉と、人口の3分の1が死んだとされる黒死病(ペスト)の流行、また生活レベルの改善や結核の増加が、何らかの関与をしたと推測されています。1世紀後の1470年、エドワード四世の時代になると、既に激減したとの記録がみられます。

英国原住民の中では、1798年に最後の患者さんが診断されています。また1951年以降、約1200人の患者さんが多発国から英国に来ていますが、現在まで、土着の英国人の中での発症者はありません(Leprosy, Hastings ed, 1985)。一方欧州北部ノルウェーでの鎮静はやや遅れたものの、18世紀後半には患者数が著明に減少していました。しかしその後、特異な経過をたどることになります。これについては、次回ご紹介する予定です。

[楽泉園 並里]

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<塩と人間のかかわり>〜味噌汁と血液の意外な関係〜

塩がまだ貴重だった時代、古代ローマでは兵士が給料の変わりに塩を与えられており、これをサラリウムと呼んでいました。英語では給料のことをサラリー、塩のことをソルトと言いますが、これらの語源は両方ともこのサラリウムから来ているのです。本来塩は、なくてはならないものなのですね。

それでは、なぜ塩が体に必要なのでしょうか。たとえばケガをして、傷口から血が出た血をなめてみると塩っぱい味がします。血の中には塩の成分であるナトリウムが入っているためです。このナトリウムの濃さは、いつも0.9パーセント程度になるように調整され、血液の量を一定に保つ役割をしています。この割合がとても重要で、驚いたことに味噌汁のちょうど良い塩加減と同じなのです。人間が「おいしいなぁ」と思う塩加減は、実は血液の塩加減と同じだったということがわかりました。

よく「日本食は塩分が多い」と言われます。ご飯、味噌汁、魚の干物と大根おろし、納豆、焼きのり、漬物と和え物と言った、典型的な和食の場合、大ざっぱに計算して、だいたい6から8グラムぐらいの塩分を摂ることになります。

「塩分を1日10グラム以下にしましょう」という目安からすると、確かに日本食は塩分が多いようです。

なぜ日本食は塩分が高いのでしょうか?理由をいくつか考えてみました。まず、われわれの主食が「コメ」であることが大きな原因だと思われます。今ほど豊かでなかった時代は、体を動かすもととなるご飯(栄養学的には糖質)を、少しのおかずで食べられることが重要でした。つまり少量でご飯が食べられるように、味の濃いものをおかずにする必要があったのです。さらに肉を食べる文化の無い頃に、海産物を遠くに届けるため、干したり佃煮にして保存する方法が発達しました。昔の人々は生きるためにさまざまな知恵を絞ってきたのですね。

[楽泉園栄養管理室 西岡(楽泉園の"楽食だより"より)]

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<利子さんの「譜を読む」お便り>

読むのを止めた曲  シューマン(ドイツ)のパピヨン(蝶々)

私はいったん曲を読み始めたら、必ず読み終わることにしています。しかしこの「パピヨン」だけは、途中で止めました。いくつかの章から成っていて、あと1,2曲を読むと終わるところまで来ていたので残念でしたが。

曲を読む時は、先ず全体の流れを決めます。次はメロディーの1音ずつにくっついて行き、作曲家と同じ精神状態になって、何を考えたかを「読み」ます。「パピヨン」でも、シューマンが跳ぶところでは、私も一緒に跳びたかったので、何度もその音に向かおうと試みましたがだめでした。一緒に跳んだら、私の心がパーンと壊れてしまいそうで、怖いのです。胸苦しい気持ちになり、中止と決めました。それでシューマンについて調べてみました。

1810年ドイツ生まれ、16歳の時、父親が精神に異常を来して亡くなります。30歳くらいから、シューマンも徐々に病み始めます。40歳頃には幻覚を見るようになり、42歳でライン川に身投げして、病院に入院します。46歳で死亡するまで、仕事はずっと続けました。

「パピヨン」は21,22歳のころの作品ですが、私にはこの時でももう既に異常に思える音使いです。37歳の「飛翔」の中では、熱心に舞い上がって跳ぶ練習をします。しかし「飛翔」が可能となった時に、跳びませんでした。38歳の「トロイメライ(夢)」には、「自分は飛び立つことが可能であっても、中空あたりを眺めているのが好きだ」と書かれています。ベートーベンとは正反対の、最後にはしりごみする性質でした。16歳で父親の死から受けたショックは大きく、「いつ自分は発病するか」といつも不安でした。それを思うと無理も無いことでしょう。

このシューマンも、恩師の娘クララと結婚する時は、勇敢でした。結婚を阻む恩師の同意が得られないので、裁判所の許可を求めてまで結婚にこぎつけます。お蔭様?で、美人ピアニストのクララは子だくさん、共稼ぎで苦労します。これに同情してブラームスがクララに親切だった話も有名です。

[桑原利子]

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<クマさん日記>

南欧は「北海道と同じ緯度に位置しているんですよ」と言うと、「へーえ」と言う返事が返ってくる。更に言えば地中海を挟んだアフリカ大陸北岸でさえ、東北と同じ緯度にある。因みにチュニジアの首都チュニスと同緯度にあるのは、仙台市である。

チュニスは古代ローマ帝国に対して闘いを挑み、象でアルプス越えをしたハンニバル将軍が活躍した、カルタゴに隣接する。乾燥性の亜熱帯気候で、雨季乾季の区別がはっきりしている。地中海性気候の特徴は、冬に雨が降り、この時ぐーんと気温が下がるので、ボルヌースと呼ばれる、羊毛で織ったマントをはおる。地方ではいまだに陰暦で、農・漁業を営んでいる。

5月になると、大西洋を回遊していた黒マグロがジブラルタル海峡を通り、産卵場所を求めて穏やかな地中海に入ってくる。沿岸にはマドラグと呼ばれる、大がかりな鮪定置網がしつらえてある。鮪漁を皮切りに、鯖、鰯、イカ漁が続く。殆どがランパラと呼ばれる集魚灯漁法である。日本のイカ釣り船や、フィリピンのバスニグ漁は集魚灯が本船についているが、ランパラ漁は一人乗りの小舟にカーバイドを炊き、2、3時間かけて集魚する。頃合いを見計らって本船が集魚舟に接岸し、網の端を渡し、魚群を巻く。極めて経済的で効率的な漁法である。

時々せっかく集めた魚群にイルカが侵入して、魚を追い払う。「くそ、撃ち殺してやる!」と船長は水面目がけて自動小銃で威嚇射撃をするが、間違っても打ち捕らえるのを、見たこともなければ聴いた事もない。

陸地では、一年の半分は夏で、冷たい冬との間に短い春と秋がある。食糧生産も祝祭事も全て夏に行われるので、夏は本当に忙しい。寒気を残した風の中でミモザが開花すると、やがてヒナゲシ、ラベンダー、オリーブ、サフラン、薔薇、葡萄、かんきつ類と、先を競い合う。蜂や蝶が飛び交い、時には招かれざるバッタやイナゴの大群が襲来し、小麦を食い荒らす。地中海沿岸では、温暖な気候に育まれて香草や薬草が多く、古くから住民の生活の中でよく利用されて来た。そして、現在も世界の香料市場の動向を左右する、南仏グラス。

香原には天然と合成香料があり、大衆高級品向けには、ベースには合成香料、トップ(嗅がせたい良い匂いの部分)には、天然香料をブレンドする調香法を用いる。合成香料は量産できて安価である事の他、天然香原に比べて品質が一定で安定しており、調香師には使いやすい。

薔薇油1グラムを製造するのに、新鮮な薔薇の蕾が2千個以上必要である。世界の三大産地(南仏グラス、モロッコ南部、ブルガリア東部の薔薇渓谷)では、何処も変わらず、黎明の中で籠を担いだ乙女達が、朝露に濡れた蕾 を手で摘んでいる光景を目にした。

胡椒、肉桂、丁字などの東洋貿易でもたらされた高価な香辛料を入手する事が困難な地中海沿岸庶民の家庭では、庭先にネギ類以外にセージ、バジル、オレガノ、フェンネルシード、ローズマリーなどの香草を栽培して利用した。

口の悪いローマ貴族達は、これら自家生ハーブを、貧者の香辛料と言った。香水はエジプトからギリシャへ渡り、ギリシャではヒポクラテスによってハーブが薬源として医療に活用された。その技術はイブンシナ(アラブ人)により、ローマを経て、やがてフランスとその周辺諸国にも伝搬した。

こと、香料に関して言えば、アラブやアマハラ(エチオピア)の貢献は大きい。アラブ人はアルコールの発明により、植物性揮発油の抽出を容易にして香油を生成した。アマハラには、薫香を煎る事で、香を高める技法を編み 出した歴史がある。

[NIRVANA 第8号、2004年10月]

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