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聖信村

カトリック信仰で開拓した 聖信村

慶尚北道の西南部、星州郡・草田面・龍鳳里に位置する聖信村は、カトリック定着村の代表的な所として、信仰の探さと同じくらいその土地に固く根を下ろしている。金泉から星州へ行く国道からわずか五百メートルしか離れていない聖信村は、東側が高い山に覆われてる奥地にあるが、田舎の匂いが柔らかく漂う典型的な農村の中の一つである。今から三十六年前の一九五三年四月の初入日(陰暦)、六世帯、十余名の人々がこの地にやって来て、土地を耕した。その昔、この土地は分け入るのも難しいほど欝蒼とした栗林に包まれた陰惨な共同基地だけしかなかったが、彼等は天主様への愛とその保護を受けながら全身を傾けて不毛の土地を開拓して行った。

*聖信村の始まリ
彼等はハンセン氏病による病苦を患いながら共同生活をしていたが、前にいたウニヤン園(慶尚北道・高霊郡所在)の生活では信仰的な葛藤が病苦以上に強く、この土地に来る時にもただ純粋な心で天主様に従おうとする根深い信仰によって移住をした。当初は土地を耕して移住できる場所を整える事が彼等にとって目下の急務だったが、労働力のある人はわずか五名で、道具と言えば鍬が三つ、シャベルが一つ、鋸が一つだけしかなかった。しかし、彼等は天主の愛に感謝しながら、つらい事も忘れて熱心に土レンガを作って行った。日ごとに増えて行く土レンガを眺めていると、喜びと希望があふれる未来を思い描く事ができた。
しかし、そのように彼等が嬉しがっている姿を嘲るかのように、急に夏の雨雲がにわか雨を降らせたため、情熱を込めて作った土レンガはどろどろの土くれに崩してしまった。本当に呆然とするようなつらい出来事だったが、彼等は落胆したり不平をこぽしたりはしなかった。むしろ、今度はそれ以上に情熱を込めて仕事をし、壊れた土レンガも手直しして、立派な家を作り上げた。そして、ようやく生活の基礎を築いた彼等は、忠実な信仰生活をするためにカトリック教理に明るいイム・チョルスン氏を招いて、昼夜を分たず学習教室を開き、教理の勉強と祈祷生活をし始めるようになった。仕事をする前、庭に座席をしつらえて聖歌を歌いながら教理学習を受け、天主様の恩寵に感謝しながら一日の日課を喜びの心で始めた。
しかし、その時、礼拝を行なえる聖堂がなかったため、彼等にとっては、それがいつも心に引っかかっていた。そして、彼等は聖堂を建築しなければならないという強い執念をもって東奔西走し、ちょうど星州分堂に常駐していたチョン・エクベルツ神父と出会う事によって多くの助けを受けられるように
なった。

*聖堂建設と初受礼式
村人たちが節約して集めたその全てのお金で聖堂を建築したいという意志がチョン神父に伝えられると、彼等の熱意と深い信仰に感動した。チョン神父は直接ミサも引導し、教理も教えながら多角的な方法で村人を助けるようになった。そして、チョン神父との緑によって公所(教会)での集まりを持ち始めてから三カ月日の一九五六年十月。土レンガで聖堂を建設し、初めてのミサと受礼式を行なった。
それは本当に涙が出るくらい感激的な出来事だった。三年間の苦しみの生活が彼等に聖堂という一
つの貴重な贈り物を抱かせてくれたのだ。聖堂の建築と自由な信仰生活によって新しい活カを得た彼等は、一九五七年にそれまで無断で使用していた土地を、地主であるクォン・ジユンソン氏から共同で購入し、これによって名実共に聖信村は確固たる基盤を得る事となった。そして、彼等は自治会を構成して他の人々からひんしゅくを買うような事は厳重に統制し、村の外に出ようとする時はそのつど帰省証の発給を受けなければならないようにした。

*聖信医院の開院
自主的に出発してついに生浦の基盤を構えた彼等は、一九六二年に聖信医院が開院すると疾病治療と生活環境の面でも大きな変化を迎えるようになった。それまで病苦にあえいでいた一部の村人が聖信医院で治療を受けられるようになり、また、その一方では、十一棟の文化住宅も新たに建てられたため、天幕生活のような困難な生活を完全に清算できるようになった。
聖信医院の開院とともに赴任した院長は、修道女であり女性医師でもあるドイツ人のディオメデスという方だった。彼女の赴任によって最初はいろいろと難しい問題も生じた。今ではそれは別に大した事でもないただの誤解にすぎなかったという事は皆よくわかっているのだが、ディオメデス院長が赴任した当時は彼女の人格をうまく理解できなかったため、彼女を恨んだりもした。そして、その彼女に対する不信と誤解は意外に長く続き、村人たちの信仰心までもが動揺するという危機的事態にまで陥るようになったが、外部から支援される糧穀に対して原則を固守して支給していた彼女の正当性が理解されるようになってからは、彼女の手を握って天主様の内に一つの兄弟姉妹である事を再確認し合った。それから全村民が自分たちの手で建てた聖堂に集まり、ディオメデス修道女が演奏するオルガン伴奏に合わせて感激あふれる聖歌を歌いながら聖信村の再建を図るようになり、喜びあふれる共同体生活を再び送るようになった。

*養鶏の始まりと所得増大
彼等はこの時から養鶏を始め、卵を売るようになったが、日が立つにつれてだんだんとその数字が伸びて行き、ある時などは近隣の村よりも所得が高くなったりもした。また、その翌年の一九六七年三月からは、政府の支援と奨励によって十二万坪の山野を開墾して養蚕業を行なうようになった。しかし、養蚕では多くの所得が得られないため、それまで続けて釆た養鶏を本格的に始めて、着実な所得基盤を固めて行く事にした。
また、一九六九年には青年会組織として任意の信用協同組合を発足させ、これを少しずつ拡大して行って、一九七〇年には鶏舎を新築し、当局から資材費と住宅事業の支援を受けながら、体系的な養鶏を始めた。
一九七二年の末には畜産組合が単一化され、飼料の共同購入と鶏卵の系統出荷が始まり、それによって体系化された所得事業を成す事ができた。

*聖信信用協同組合の法人登録
一九七二年八月、特別法人として聖信信用協同組合を登録申請し、財務部長官の承認を受け、翌年の一九七三年六月には村の指導者であるキム・ジングク氏が信協の指導者教育を履修して事業を拡張して行った。設立当時から貸し出し、借り入れ業務を行なって来ている聖信借用組合は、約一億余ウォンの資本金でもって村民生活に多くの寄与をしている。現在は村人だけに限定しているが、他の金融機関よりも良い貸し出し金利を適用していて、その利用率と事業はたて続けに増えている。また、今後は現行融資限度額も三百万ウォンから五百万ウォンヘ増やして行く計画で、融資機関は十八カ月と限定して六カ月ごとの利子清算と元金の三分の一を償遺するようにして事業の安定性を高めるようにしている。

*畜産業の発展
聖信村では一九七三年七月十入日に完工された聖信橋の開通に伴って畜産業が急速に発展し始めたが、それまでの養鶏業に加えて、最近に至っては養豚の数字も大きく伸びている。一九八人年現在、五十余世帯が保有している養鶏と養豚の数は、鶏が十万匹、豚が千五百余頭、牛が二百余頭で、規模は小さい方であるが他の所に比べて非常に冷めた経営をしている。
地理的に奥地に位置しており、流通経路も複雑であるにもかかわらず、なぜそのような合理的経営が行なえるのかと言えば、村人たちの一致した力と、時期に見合った情報を確実に入手できているためであると思われる。すなわち、毎月一回ずつ開かれる鹿北定畜連合金(会長、イ・イノ氏)に参加して他の農場と資料を比較したり、正確な市価などを感案し、商人たちと円満な合意を重ねながら生産物を販売しているためだ。

*聖信村の明るい未来
一九六三年、政府施策によって陽性反応を見せた村人は国公立病院などの療養施設に移り、治癒者たちだけが定着し、誠実と勤勉によって生活の土壌を堵って来た聖信村は、今や自立の段階を乗り越えて発展して行っている。
昔は一般の人達からの間違った偏見によって無視されていたが、天主教信仰を基本とした博愛精神と協同の心によって近隣の村と比べて経済的にも精神的にも前に立てるようになり、また内実を備えた畜産業として充実した経済力を築いている。
一九八六年一月八日、「聖信農場」という看板が下され自然部落へと分離されて行政単位に加えられた聖信村は、今後とも霊肉ともに健康で勤勉な人々が生きる村としてたくさんの人々から記憶される事だろう。また、既に社会の中で成長して外部へと進出し、勤勉な人生を送っているここの子供たちが今も活発に活動している点を感案すれば、聖悟村は創設時から夢見て来たその全ての望みを、近い将来必ず成就できるようになるだろうと思う。
そんな中、去る十月、二百余名を越える聖信村の人々はとても意味深いある行事を祝った。聖悟医院(現在、カトリック病院・星州分院)の外国人院長であるディオメデス修道女と、彼女を助け聖信村に居住しているエナタ修道女の修道誓願五十周年記念行事を盛大に行なったのだ。言語と生活風習が違う外国の地で、二十六年間、ひたすらキリストの愛によって聖信村の村人たちのために奉仕して釆た彼等のために貴い祝賀の席を設けた。何よりも貴重な事は、このように私たちに施された愛は対して感謝する心を持てるという事なのであろう。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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