モグネット ホーム インフォメーション お問い合わせ サイトマップ
ニュース ハンセン病 イベント&ワークキャンプ 茂木新聞社

敬天農場

雉岳山の精気の中で発展する 敬天農場

全国で一番早く冬がやって来るという江原道・原州の外核に位置する敬天園は、養鶏団地として出帆してから既に三十余年が歳月が流れている。一九五七年六月十三日、大明園から分家した二十人世帯、六十名の人々は天幕を張って生活を始めたが、それが現在のような百万匹の養鶏団地となるまでには言葉では表現できないような苦しい道程があった。天幕を張って定着はしたものの、生活の糧を得るのは大変だった。暗たんとした現実を前にして彼等にできる事と言ったら、ただ神様に運命を預けて祈る事だけだったが、持ち物も何もない状態で捧げる神への祈りは切実なものとならざるをえなかった。
貧しさと飢えにあえいでいた人々をいつも憐れんで下さる神様は、彼等に対してもカナダの宣教師であるモレリー博士を通して、土地三千坪を与えて下さり、また近隣に駐屯していたアメリカ軍兵士たちを通して千坪に至る土地を生きるための土壌として与えて下さった。
定着によって鶏舎を建てられる土地を手にした彼等は、感謝の気持ちを抱きながら汗水流して熱
心に働いた。初めて行なう仕事のためかあらゆる事が失敗の連続となり、その挫折とくやしさが彼等を苦境に追いやった。しかし、たとえ失敗しても空ばかりを仰ぎ見て恨やんでいるような彼等ではなかった。「失敗は成功の母」という言葉もあるように、失敗する事が経験となり、それがまた新しい知恵を産んで自信を持ち始めたのだ。その後、鶏舎を増築して行った事で養鶏の数もだんだんと増え、それにつれて興味ややりがいも生じ、お金も貯蓄して行けるようになった。
定着して三年目のある日、彼等は監理教(メソ
ジスト派)のジュディ牧師と米軍KMAGの会員と共に三十人坪の礼拝堂を新築し、二十四坪の医務室を建て、足を伸ばして一緒に笑い合える時間を久し振りに持った。古びた礼拝堂だからといって神様がいらっしゃらないというわけではないが、村人の家よりも神様の聖殿をまず先に築いて、感謝の祈りを捧げた事は、選ばれた人々だけが感じられる喜びであった事だろう。そして、与えられた環境の中で最善を尽くしながら蜜蜂のように熱心に生きて行く彼等の周囲は日増しに新しく変貌して行った。一九六〇年の正月には自己資金で林野十八町歩を購入するという慶事もあった。
このように国家的な施策に応じて、熱心で誠実な生き方を開拓して行った敬天園は、まもなく近隣にあるどの地域にもまして堅実な経済を築いて行った。定着して新しい人生を歩み始めた彼等は、六年後、保健社会部に自活値定着村として登録し、当局から林野二十町歩と田んぽ二千九百八十二坪を貰い受けた事で、その頃、序々に増えていた人々を受け入れられるようになった。
定着してからというもの、ただ日々の生計を営む事にだけ汲々としていた彼等にとって、今度は二世の教育問題が新しい心配の種として登場した。どうにかしてでも、子供だけには、無い悲しみ、お腹がへる悲しみ、学べなかった恨みを残さないようにしようとがんばった彼等の強い意思は、その後、敬天分校を誕生させるに至り、ここで子供たちは学びの門をくぐれるようになった。
国家ではその頃、第一次経済開発五カ年計画が成功りに終わり、第二次経済開発五カ年計画が樹立し、全国至る所で建設の槌音がとどろき渡っていた。戦後の混乱期と四・一九革命、五・一六軍事クーデターの渦巻きの中で沈滞の沼をさまよっていた国家経済が、長い眠りから目覚めて動き始めていた。全国至る所でダムが建設され、発電施設が増え始めると、農漁村や山間地域にまで電気の灯が入って来た。そして、この新しい変化の破は、敬天園にも押しよせて来て、国家支援による千六百余万ウォンと自己資金七十余万ウォンによって、百四十一世帯の全家庭に電気施設が整えられた。また、電気文明の導入によって全ての分野が飛躍的な発展をした。まず、鶏舎を現代的な施設にした事が生産量を急激に増加させる契機となった。しかし、その半面、急激な生産設備の現代化がもたらした被害は負債を増やす原因となったりもした。その過渡期的な経済難から簡単には解決の糸口を見出す事はできなかった。一九七三年四月には宣明会(ワールド・ビジョン)の斡旋によって百二十四名が教育費を受けるようになり、経済的に、また精神的にも大きな助けとなった。これによって子供たちから貧しさゆえの苦労をぬぐい去ってあげる事ができたが、それが彼等にとってはどれほど嬉しかった事か。キム・フンヨン長老はその当時を振り返りながら思い出を語り、目に涙を浮かべた。今日に至るまで、宣明会から受けて来た恩恵はとても多かった。敬天薗の人々はその金が一銭の無駄もなく村の発展のためにまんべんなく投資されたと話す。それを証明するかのように、環境改善事業によって作らされた村の秩序整然とした美しさは優雅な感じまで与える。
三十余年の間、敬天園の歴史を見守り、村のために一粒の麦となろうとしたキム・フンヨン長老は、去る十一月十入日に行なわれた養老院の起工式で、「二十七才の著さで定着しその半生をこの村で生きて来たが、ここは最も心にかなった所です。もはや子供たちのように生きて行けない体になったが、残りの人生を養老院でゆっくり過ごそう思い、今日の起工式に至りました」と語った。自分から養老院などへ行こうと願う人は、たぶんいないであろう。では、彼等はなぜ養老院で安息しようとするのだろうか。もし、それが今だに解消されない社会の備見のためだとするならば、私たちはその問題の深さを一度くらい推し量ってみなければならないだろう。涙と溜め息の歳月は、もはや敬天園を離れて行ってから長くたつ。そして、今や安定の基礎の上に立って、養鶏と養豚によって大畜産団地を成している。
一九七八年に作られた畜産組合もある所では業務処理が混乱して二カ所に分かれており、全ての行政が一貫した体系を成していない。月々の飼料消費量もわずか二千五官トンで、飼料会社も先を争って取り引きをしようと熾烈な競争をしている。昔、ブロイラー事業を導入して失敗した事もあったが、それでも対外的な信用度は優秀業者に劣らないという。
しかし、競争力によって活カを得るまでには今だに負債が多く残っているため、これを解決するための努力が今求められている。しかし、このための努力を漸進的に行なっている執行部署が心を一つにして協力して行けば今後も問題はないと思う。定着村はどこでもたくさんの人々が共同体生活をしているため、和合団結してがんばって行けば、さらに多くの発展をして行けるだろうと思う。七百余名の住民が心を一つにして歩む敬天園には、現在、二つの教会があるが、これといって大きな争い事もなく和合を成している。一九入六年末現在、敬天監理教会には三百十五名、ギョンドン教会には三百名が登録され、信仰生活を行なっているのを見ると、敬天園はどの定着村にもまして今後とも発展して行くものと期待される。
また、子女たちのための教育熱の高さも大変なもので、現在、村では大学生が二十余名、高校生が三
十余名、中学生が六十名に上る。他の地域よりも敬老孝親思想が高い敬天園の学生たちは父母たちの要求に従順で学究熱に燃え、模範生としていつも賞賛を受けているという。また、環境改善事業としてこれまで宿願の事業だった鶏糞処理工場を建てる計画があるが、これが完成すれば環境汚染の解消はもちろんの事、直接、消毒事業にも寄与できるようになるという。百六十七世帯、七百五十人が住む敬天園は現在、産卵鶏が七十万匹、大ヒヨコが三十万匹、小ヒヨコが三十万匹いる養鶏事業の他に、肉豚二千百二十頭、子豚七百六十頭を抱え、大規横な飼育頭数を自慢としている。全国のどの定着村にも見られないような敬天園の飼育設備が一日も早く現代化され、生産力や経済性の面でも他の地域の先頭に立って進んで行く事ができるように、今年がそのための転機の年となる事を祈っている。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

モグネット https://mognet.org