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天城農場

工業化の夢が膨らむ 天城農場

秀麗な山並みを眺めながら、議政府から東豆川の方向へ四kmほど行くと、京畿連ハジュ郡へと通
じる国道に接する。要所要所に設置された検問所によって、ここは休戦ラインに近く、軍事施設が多い地域である事を実感させられる。
周辺を取りまいている山々も、大きな岩の塊のように峻厳に見え、また、その岩のすきまを埋めるように立っている木々も、どんな悪条件にでも耐えて勝ち誇るかのように青々として、すっくと天を見上げている。ここは六・二五動乱(朝鮮戦争)の時にたくさんの砲弾の洗礼を受け、韓民族同士が血を流した残酷な現場を見つめた所であり、また、首都圏に隣接しているため、早くから都市文明に接して来
た所でもある.それゆえ、他のどの地域よりも我が国の歴史を詳しく知っている土地であるともいえよう。ここはまた、一九六〇年の初期からハンセン氏病回後者たちが定着し、社会的な備見に果敢に挑戦して来た土地でもある。
思いもよらなかった病の苦しみと社会からの冷遇を背負い、生きるすべを失っていた十余名のハンセン氏病者は、この土地にやって来て初めて、貴い安息と明るい未来を描いて行ける希望が芽生え始めた。当初、一軒の掘っ立て小屋の中で十余名が一緒に生活して行かなくてはならなかったが、不便であっても彼等にとって、ここは何物にも変えられない貴い住処であった。しかし、彼等には土地を耕し、種を蒔いて生きて行くための余力が既になくなっていた。それゆえ、ここに住みついてからもソウルと議政府を行ったり来たりしながら、どうしようもない放浪生活を送るしか術がなかった。
やがて一年が過ぎ、同じ身の上の人々があちらこちらからここの噂を聞きつけて集って来たが、来る者は皆、今までのような放浪生活から離れて、ここで熱心に働いて所得を得たいと渇望している人々ばかりだった。彼等は熱心に土地を耕し、サツマイモやジャガイモなどを育てながら生消し始めたが、これらが大きくなって行く姿を見つめている内に新しい意欲が湧き起こり、たとえ困難は多くとも正直な人生を追い求めようと心に誓った。

*天城教会の創立
村人の数が序々に増えて行くにしたがって、団体生活を送りながら、時にはいろいろな問題が元で不和になったり、お互いの間で葛藤が生じたりもしたが、この時、指導者たちは、教会を建て信仰生活を行なう事を通して、お互いのわだかまりを解消し、神様に仕えるながら愛をもって協力し合い、明るい希望を抱いて行かなければならないと話し合った。
一九六四年三月五日。村人は天城教会を建て、神様に祈りを捧げた。神様の御言葉を聞き、その愛を身をもって実践して行った彼等にとって、この教会は困難の克服を約束できる場所となって行った。この頃から、当時、第二十六師団に所属していた精訓将校パク・ホンス少佐の斡旋によって、わずかだが軍当局から救護糧穀の配給を受けて生活するようになり、それが放浪生活を清算するための良い契機となった。一九七〇年、国立病院から治療を受けた人々がこの村に集まって来ると、当局は彼等を仁川にある間石洞地域へ移住させる計画を立てた。

*陸英修女史の配慮
これによって村人の中の何人かは、それまで真心を込めて培って来た土地を、ある日突然全て手離して他の場所へ移らなければならなくなったため非常に心を痛めた。しかし、その時幸いな事に、朴大統領の令夫人である陸英修女史が彼等の心の痛みを慰労し、現地にそのまま定着してもよいように政府に働きかけてくれた。本当に慈愛の込もった、母のような彼女の善意と励ましは、彼等にとってもう一度新しい道を切り開いて行くための良い契機となった。それによってようやく合法的な手続きに従って定着村として登録し、自分たちの生活の土地を手にした彼等は、畜産業のための長期的な発展計画を立て始めた。一部は無償で当局から支援を受け、一部は自費を払って畜舎を作り上げ、その中で子豚とヒヨコを飼育する事によって、彼等は全ての事に対して自信を持つようになり、溢れるような感慨を味う事ができた。たぴ重なる失敗と経験不足から損害を被る事も多かったが、それでも屈する事を知らない強い意志でもって、畜産業のための基礎を築いて行った。

*畜産で自立基盤を構築
掘っ立て小屋のような畜舎の中で一匹一匹と増えて行く豚とヒヨコのおかげで生計も何とか成り立つようになり、やがてこれらが卵を産み始めると、彼等は想像もできない程の多くの金を手にできるようになった。「植えた通りに刈り取れ」という聖書の言葉に感謝をし、このまま行けばすぐにでも富者になれるような喜びに包まれた。一九八〇年代に入ると、家畜の数は豚が百余頭、産卵鶏は十二万匹にも達するくらい大きな規模へ発展して行った。京畿道一帯にある畜産関連業者らも、先を争ってこの村を訪問しては、取り引き話を持ちかけるようになり、配合肥料会社も熾烈な競争をした。
しかし、彼等が生産した畜産物は、奥地という立地条件のために定価を受けられなかったため損害をしばしば被った。その上、施設投資をしておいたのに、畜産景気が萎縮したため、それまで心血を注いで貯めて来た財産を失ってしまうという苦難も味わわなければならなかった。

*小規模工場の賃貸業
爆発的に増えた畜産業が国内需給量を上まわると、畜産業界は多くの困難に直面した。それまで負債によって賄って来た配合肥料の供給が難しくなり、生産した豚や卵はそのまま在庫扱いにされるなど、畜産業者たちが受けた苦難は図り知れないものだった。
このような困難の中にいた彼等にとって、新しい突破口となったのは一九八六年の末の事だった。ソウルの都心地開発が本格化するにつれて、零細規模の各種業者らが市内を離れて郊外に工場を確保しようとしているという事実を天城農場の指導者が耳にしたのだ。そして、合法的な手続きを経る暇もないまま入居を希望する業者らが増え始めた。初めは広い畜舎を改造して賃貸し、賃貸料をもらっていたが、規模が小さく、条件が良くない建物は改築をしたり、一部では増築をするようにした。そのため入居希望の業者は諸手を上げて嬉しがり、また、既に入居した業者も安い賃貸料のおかげで生産性が向上し、競争力をつけられるようになった。しかし、軍当局を始めとする行政当局の立場から見ると、これは納得できる物ではなかったため、しばしば天城農園の住民と摩擦を起こした。
彼等の実情を良くわかってはいるものの、各種の規定や法律があるためどうしても受け入れられないとする行政当局側の主張に対して、天城農園の指導者たちも心の内では申し訳ないと思いつつも、この方法を取らない限り生き残れないためどうしようもないのだ。現在、天城農園には百二十余個の繊維、織物、染色の業者たちが入居しており、毎日、農場を出入りする人員だけでも千五百名に逢するという。

*住民たちの願い
家畜の鳴き声と糞尿の匂いが、機械の摩擦音と油の匂いに変わった天城農園では、その地理的な利点から、今も入居を希望する業者が続々と増えて行っているが、ここは開発制限区域(グリーンベルト)に指定されているため、農園としても苦しい運営を強いられている。
八十七世帯、三百八十七人の大家族か集まり共に生活をして来た天城農園には、まだ所得のほとんどない家が十世帯程あるが、全体的に見ると、現在、村はほぽ自立段階に達したといえる。村人たちは今、開発制限区域という国土利用管理法上の規定が一日も早く解除される事だけを願っている。苦労して手にした土地に工場を建設し、その中で騒々しく動いている機械を私も見てみたくなった。たとえ、直接経営で所得を得られないとしても、より安定した生活を享受するための解決策がここにはあるものと期待している。

*農場内部の変化と発展
過去一時期、天城農園では何人かの指導者たちの力強く旺盛な意気込みと、その非妥協的な業務の進め方によって、村人にいろいろと不便を背負わさせるな点もあったが、今は再び平安を取り戻した。教会と全ての村人が心を一つにするために新しい指導者たちがして来た努力は、きっと実を結ぶであろうと期待しているが、しかし、もうこれ以上、不幸な行き違いがあってはならないと思う。過去に不合理な行政や秩序があったのであれば、全ての村人が心を一つにして、新しく責任を担った指導者たちの人格を信じながら協力し合ってこそ、新たな発展を積み重ねて行けるものと思う。多くの苦難を経て来た天城農園の新しい出発に対する期待は極めて楽観的だ。
日に日に世知辛くなって行く現実の中でも、自分の利益だけを考えずに村全体の均整の取れた発展のために奉仕しようとする指導者たちの考え方が深く根を下しているため、これからも天城農園は他のどの地域よりも経済的、文化的、信仰的に先頭に立つ農園になって行くだろうと信じている。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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