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清川農場

勤勉と誠実で成した園 清川農場

*清川農場の出発
一九ハ一年十二月。か細い木々の小技を揺らす冬の北風に吹かれながら、九世帯、十八名の人々がもの寂しい山道を引っ越しの荷物を抱えながら歩いていた。四方を見回しても目につく物さえ何もなく、人のいる気配もなく、ただただ恐ろいばかりだったが、一歩一歩踏みしめながらゆっくりと山道を歩
いて行った。政府の政策によりハンセン氏病快復者の定着事業が行なわれるようになると国立病院の星蹊園からまず完治した人々が先発隊として組織され、寂しい開拓地へと赴いて行った。わずかばかりの引っ越し荷物を入れるために建てられた五坪程のみすぽらしい家には部屋一つと台所一つしかなかった。しかし、彼等にとってはここで思う存分、翼を広げられるという事が、何にも増してもうれしかっ
た。
当座は明日の飯について心配をしなければならないという切迫した立場に置かれてはいたが、彼等は全てを皆、神様にあずけたまま、ただひたすら手がむくれ上がるくらい熱心に働いて行った。そして、風を避けるために天幕を張って礼拝堂を作り、神様に祈りを捧げた。闘病生活を通して絶望の淵に落とされてはいても、いつも喜びと平穏な生活を与えて下さる神様に対して、彼等はあらゆることを全て頼りたかった。
一九六一年十二月二十七日・ハンセン氏病から完治した七十七世帯の人々が移住して来ると、この村も序々に人が増え始めた。新しくやって来た人々は、みんな意欲約な姿勢で熱心に働いた。毎日明け方の四時に起床し、神様に祈りを捧げた後、山を開拓する仕事に最善を尽くした。年が改まり、春がやて来て、凍てついた大地が解け始める頃、彼等は開墾しておいた畑にサツマイモを植え、心を込めて育て始めた。青く生き生きと延びて行くサツマイモの蔓を眺めていると、彼等はまた新たに生きる意欲が湧き起こって来て、もう二度と困難に苦しめられる事はないだろうという確信するようになった。

*鶏舎の中で捧げた礼拝
たくさんの人々が集まって来た事でサツマイモやジャガイモを植えながらまた新たな挑戦をし始めたが、天幕作りの教会でこのまま礼拝を捧げる事がだんだんと罪深く思えるようになってきた。そのため四月になってから、チャ・サンホ氏が建てた鶏舎へ礼拝場を移す事にしたが、それによって少しは気持ちの方も安堵する事ができた。それから彼らはうっとうしい梅雨の雨降りの中でも、夏の照リ付ける陽射しの下でも真心を込めて献金をし、十六坪に至る礼拝堂を建てた。そして、汗と真心を込めて自らの手で建てた聖堂の中で献堂礼拝を捧げながら、彼等はこのように健康を回復させて下さり、生きる土壌を与えて下さった神様を喜びをこめて称え、感激の涙を流した。
ミレーの「晩鐘」の絵のように、彼等は毎日祈りをもって仕事を始め、日が暮れると暗闇の中で土を耕しながらも、神様へ向けて感謝を捧げる事を忘れなかった。
そして、このような着実な信仰心が生活の基本となると、村の中でのいさかいは全くなくり、お互いに善意の競争を通した所得基盤の拡大に没頭し始めるようになった。当時は村の教会に担任教役者がいなかったため、しっかりとした信仰生活を送る事にだんだんと不安を感じ始めた彼等は、チョ・ビョングン伝道師を数役者として迎え入れた。一九六四年に千二百五坪の牧師館を新築し、初代の役員として男六人、女三人が献身的に奉仕するようになった。

*個人耕作地の割り当てと副業畜産
彼等が清川洞地域に住みついて生活し始めた事により、当局から三百坪ほどの野山を耕作地として開拓するようにとの割り当てを受けた。それで、春にサツマイモやジャガイモを植えて育ててみたのだが、食生活をする上で大した助けにはならなかった。そこで彼等は新しい分野を開拓して所得を伸ばさなければならないと判断し、近郊農産物として人気があったタマネギを栽培し始める事にした。それは狭い面積から受ける所得としては、まあまあ良い方だった。また、そのような仕事を行ないながら、一方で数十匹の鶏も飼い始めた。そして、卵一個の収益性が他のどの農作物よりも良いという事を知った彼等は、鶏の取り引き数量を伸ばすために熱心に仕事をした。
やがて、このような情熱的な生き方が、近隣でうらやむ程の発展へと繋がって行った。夜遅くまで働く彼等の誠実な生き方を見て、近隣に住む住民たちは、「アフリカの砂漠に放り込んでも生きて行ける人々」と言って高く評価した。彼等にとって困難で辛かった六十年代は、また同時に多くの可能性を秘めた時期でもあった。国家経済開発計画にしたがって仁川地域に大規模工場が立ち並び始めると、近郊農業は高所得を上げられるようになり、そして副業として始まった養鶏業の方も収益を上げるようになって行った。

*養鶏業への転換
清川農園が発展するにおいてちょうど分岐点となった時期は、一九七〇年代初期であったと見る事ができる。経済発展と共に卵の需要が爆発的に増加し、それとともに副業として始めた養鶏もだんだんと増えたため、タマネギを育てた農地の上に鶏舎を建て、その規模を広げて行った。当初はわずか数十匹に満たなかった鶏の数もだんだんと増え行って、今では四百匹、中には数千匹も育てる人まで出て来た。また、その彼等の情熱的な生き方をじっくりと見守っていた当局でも、電気や電話など文化施設の支援を積極的に行なったが、それが結果的には近隣の住民たちにも恩恵をもたらす事となった。
やがて鶏卵の需要と共に鶏肉の需要も急速に増え出すと、一部では肉鶏の飼育も並行して行なわ
となっていった。そのような発展と繁栄が続いていたある日、清川農場に突如として大きな突風が装って来た。オイル・ショックによる国家的規模の不況によって、それまで少しずつ貯めて来た財産を全てはたいて大量に買い入れた肉鶏を、ほとんど捨て金同然の値段で売り渡すという苦難を味わわされた。そして、それにともなってこれまで先を争うように清川農場に飼料を供給していた配合飼料会社も非常事態となり、多くの農家は滞った飼料代金を清算できないで次々と倒れて行った。実に身につまされる時期だった。しかし、それは誰にも手を出せない問題であり、無常な現実の中で村人はただただ痛みをじっと耐えているしかなかった。

*国内最大の養鶏団地に発展
様々な苦難が清川農場の人々を痛め付け、絶望の中へと追いやって行ったが、それでも彼等はその全ての事を神様の御前に預けて、一日一日与えられた日課に最善を尽くして働き続けた。そして、指導者たちは肉鶏を飼うのは危ないと判断して、全村民に対して生業を産卵鶏へ転換するように指示を出した。一九七六年に入ると、そのような困難も乗り越え、産卵鶏の授受も六十万匹に増え、飼料の量も増加するようになった。その時、清川農場の指導者として選ばれたホ・ドン氏は、同じ仁川地域に位置している富平農場、京仁農場などと協同組合を構成し、飼料及び動物薬品を共同購売して生産原価を節減して行き、一方鶏卵の販売においても、商人たちの手に左右されないような新しい対策を立てて行った。特に首都圏地域の鶏卵流通過程の調停のために養鶏の指導者らと活発な接触を持ち、発言権を強めた。
七〇年代中盤以後になってから増え始めた産卵鶏によって、一九八五年には全国で最も大きい養鶏団地として発展するようになり、百三十万匹という今でも他に例を見る事ができない程の超大型鶏卵生産地となった。そして、このように村が巨大な鶏卵生産団地に育つと、そこに市場性を感じ始めた配合飼料会社や動物薬品業者、鶏卵商人らが、先を争って商品競争と物量確保のために熾烈な競争をするようになった。この頃から清川農場は一般の人々以上の高い所得と文化生活を営むようになり、子供たちを立派に育てて行くためのしっかりとした基盤を立てられるようになった。

*養鶏の退潮と賃貸事業
しかし、このような好景気と活カあふれる住民たちの養鶏への意欲は、最近になって数年間続いた養鶏不況によって苦戦を味わわされている。生産過剰と消費伸長率の低調などがその原因となっているが、そんな中でも幸いなのは零細製造業者が工場の賃貸を要請して来ている事で、建物を改造したリ拡大、または増築して貸し出し、賃貸料を受けながら生活できるようになった。しかし、村人たちは養鶏で熱心に仕事をしながら所得を伸ばしていた時代を恋しがっている。既に四分の三以上が建物賃貸へと転換したが、残りの四分の一も幸いな事に去年の末から続いている値下がり傾向にカを得て、好景気を享受できるようになった。
鶏の鳴き声とエサを啄む音が休む事なく聞こえていた地域に、いつの頃からか騒々しい摩擦音と真っ黒な煙が立ち登り始め、隔世の感を抱かせるが、その一方では、これからは公害にも接して生きて行かなければならなくなった事で、村人の表情は心なしか暗いようにも見えた。また三千令名に達する工場職員たちの自由奔放な振舞いも、清川農場の指導者たちの感情を刺激している。
しかし、たとえそのような問題点があっても、これまでたくさんの祝福を受けながら発展を重ねて来た清川農場は、今や経済的な面では他のどの地域よりも抜きん出ているため、今後とも霊的な祝福までをも含めてあらゆるの面で発展して行くものと思われる。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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