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菖平農場

韓国最南端の福祉村 菖平農場

南海の青い波を招き分けながら貿易船が行き交う、我が国第一の港都プサン。菖平農場は全国の定着村の中でも最も南の果てに位置した所にある。海抜百六十メートルの蜂火山の麓に現代式鶏舎が隙間なくぴっしりと立ち並んでいる姿が壮観さを成し、そこかしこに鬱蒼と生えている松林が多大浦の海に向かって何かを叫んでいるかのように海風にそよぎながら立っている。
定着してから今年で三十余年の歳月が流れたが、長い間、貧しさと病苦にもめげず、それに打ち勝っ
て行くにはこの土地は大変な所だった。海抜百六十メートルと言っても、南も北も切り立った断崖に遮られていて、自由な通行もままならないためである。その上、冬になればいつものプサンの和やかな天気と打って変わって、強い海風が身を切るような寒さを運んで来た。しかし、定着の意志を固めたソンファ園に住む五十余名の人々は、窮乏と寒さの中でも、毎日、熱心に険しい山地を開拓して行ったが、充分な健康を保つのもままならず、生きてやるぞという精神力だけでは問題を全て解決する事はできなかった。
ソンファ園の初代院長だったイ・スニョン氏を始めとして、チェ・ジョンヨル氏、チェ・イナク氏、ヤン・チヤンシク氏などが指導者として選ばれ、新しい生活の基盤を築くために先導者的な役割をして行った。そして、六・二五戦乱(朝鮮戦争)後の混乱と廃虚の中でも大変な闘争は続けられたのだが、結実は少なかった。
ちょうどその項、近くにキム・インスという若者が移住して来た。そして、その彼の熱心に働く姿と、勤勉性、人当たりの良さを見て、ソンファ園の人々は彼を新しい指導者として推し上げる事を決めた。その時の時代的な流れの影響もあったのだが、ともかくキム・インス氏の入植は村にとって窮乏から解放されて行く糸口となった。
当時、ソンファ園が直面していた問題は、一九六六年八月一日に当局からの配慮によって買い入れた林野五万余坪の所有権登記を済ませる事であったが、それを解決するための適当な方法が見つからず、ただ漠然とした日々を送る状態が続いた。所有者のほとんど全てが既に世を去っているため、譲渡を受けた後孫たちに協力を求めると、彼等は「売り渡した事実はない」と言って責任逃れをする等、まったく不誠実な反応ばかり見せるので、問題の解決どころかその意欲までもが挫かれるのだった。
しかし、そこでこのままにして置くわけにはいかないと立ち上がったのがキム・インス氏だった。運営委員たちの積極的な協力の下に、キム・インス氏はそれから四年半もの間、土地に関連がある人々を訪ねて説得して回ったが、門前払いをしたり自分の所有権の主張しながら怒りを表わにする人々と言葉を交すのは容易な事ではなかった。それでも、彼はそれに黙々と耐えて、彼等との話し合いを通して問題が解決される事をじっくりと待っていたのだが、結局、法廷闘争にまで飛び火して行ってしまった。
事件は法廷に係留中のまま、四百余名に至る所で有主たちと個別的に接触し、説得を続けた結果、ついに話し合いが付き、法の審判の方も勝訴に終わった。そして、この四年半のねばり強い闘争が勝利で終わると、全ての村人は安堵のため息をついた。
自分の物が法的に保証された時の満足感は、そういう経験がある人にだけわかる物であろう.そして、この事でがぜん土気が高まった菖平農場の村人は、すぐに新しい事業に着手し出した。数十年にわたって行なわれていなかった上水道工事を、当局の協力の下に五千六百余万ウォンの事業費をかけて、二カ月という短時間のうちに高地に位置した全家庭へ水道水が行き届くように仕上げた。
新しい指導者のキム・インス氏を中心にして村が結束すると、何か新しい可能性が見えて来るようだった。そして、動き出した彼等の歩みは立ち止まる事はなかった。肉体的に不完全な体できつい労働を
するために傷を被る事も心配されたので、その解決策として、自己資金千二百余方ウォンをかけて共同事業によって二十坪に至る診療所を作る事にした。
そして、それまで無秩序だった村の周囲を整備してみると、さらによい物を作りたいという欲が生じて来た。より多くの発展と便利な施設を願うならば、何よりも車両通行に不便がないように道路網を構築しなければならないと悟った彼等は、まずプサン市長林洞から上って来る二kmの道を拡張して舗装しようと考え、一・五メートルしかなかった道路を四メートルに拡張捕装して、それまで泥んこだった道をアスファルトに変えた。その結果、村の住民たちはもちろんの事、外部車両の通行までもが可能となったため、八四年度からは二十四人乗りのパスを二台導入して運営し始め、現在、村の人々の貴重な足変わりとなっている。
しかし、最近では、交通量の増加に伴って車両通行にも制約を受けているため、当局からの支援がなくても来年からはさらに広く道帽を拡張する計画でいるという。その他、特に記すべき事と言うと、最近、村の経営がそれまでの畜産から家内工業へと変わって来ているという事であろう。簡単な電子、機械製品の組み立て等、近隣の工場から回されて来る仕事を請け負いながら事業を進めて行く計画である。また、地域的に見ても外部からの移住も序々に多くなり、彼等と共に隔たりのない生浦を開拓して行けるようになった。わずか数年の間に生じたこの変化は、菖平農場を高所得の地域へと変えて行っている。しかし、彼等は少しもその余裕を弄ぶ事をしない。常に謹厳節約の生活を送る事によって、さらに確固とした基盤を培って行こうと努力している。定着村を知る多くの人々は、彼等が他の人々より安定した生活を送って行く事ができるのは、謙虚な信仰生活にその訳があるという。
主日をきちんと守り、神様に向い合って感謝する生活をきちんと守っているために祝福を受けているというのだ。ここソンファ教会(クォン・ヨンシク牧師)を中心としたキリスト教徒たちは全体住民の九十五パーセントにもなる。村のあらゆる事が教会を中心にして行なわれるために、愛が満ちあふれ、何の不和も起こらず、百余世帯、四百余名の村人たちが和合団結を成して平和に暮らしている。そんな中で開拓当初から菖平農場の礎となって生きて来たクォン・ヒョクウ、チェ・イナク、チョン・ソンホン、イ・ギテ、キム・インス等、ソンファ教会の長老たちは、常に人々のために一粒の麦となろうと言っている。
また、この村で自慢の種にしている物が一つある。それは目上の人達に対しては鼻心を尽くして世話をしてあげようとする暖かい心である。時が過ぎるにしたがって衰えて行っている美風良俗が、ここではしっかりと受け継がれているという事を目にするのは嬉しいかぎりである。村の指導者らが中心となって、孤独な老人たちを招き、彼等を慰労しながら趣き深い宴会広場を設けて喜びを分かちあったり、観光パスを貸し切って老人たちを連れて古跡地を巡る事などは、他の定着村ではとても目にする事ができないのではないかと思う。過去の失意を乗り越え、今、自力で福祉社会のための準備を整えようとしている菖平農場。ここは神様から選ばれた村であり、選ばれた人々が住んでいる。それゆえ過去を振り返る余裕があるし、現実の生活に疲れた可哀想な隣人たちをも世話してあげようという知恵も持っている。「汝自身を愛するように汝の隣人をも愛せよ」と言われた神様の御言葉にしたがって、彼等は不遇な隣人を憎しみなく助けた。そして、その一方で国土防衛のために悪条件の中でせいいっぱい働く兵士たちの苦衷を慰労する事も忘れなかった。また、公共施設に必要な物を支援するという仕事も喜びと共に真心を込めて行なっている。
自分の事ばかりにかまけるよりも、村人が共同して行なえる作業を追い求めた菖平農場の人々。彼等はこのような確固不動とした共同体意識の中で、今も生きている。キム・インス長老は「これまで前に立ち塞がった様々な峠を賢く克服して行く事ができたのは、全村民が心を一つにして指導者を信じて従って行ったため」と回顧する。個人的な私心を一切持たなかった指導者と、彼を信じて従った村人たちの調和が、このようなしっかりとした組織体を作り上げたのだ。
去る十月三十一日、菖平農場の代表であるキム・インス氏は、政府が与える大韓民国勲章の勤労賞を授与した。これは明らかに個人の栄誉ではなく、全村民が一緒に受けるべき勲章であろう。他よりも劣る環境の中で、人一倍、血のにじみ出るような努力をして得た貴い栄光でなのだから。しかし、菖平農場の人々はこれに満足する事なくこれからも生きるためにさらに良い沃土を培おうと努力して行く事だろう。そして、残っている幾つかの課題も全村民がカを合わせながら最善の方法で処理して行くものと思う。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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