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父の生き方、わたしの生 〜金新芽さんの言葉〜

私の父は、非常に実際的な人でした。それから、子どもたちの教育にも全身全霊を傾けていました。例えば、こういう話があります。
韓国のキリスト教には、酒、タバコはしてはいけないという戒めのようなものがあるのです。洗礼を受けて、教会の役員になれば、もう当然、タバコと酒は切るという事なのですが、私の父の場合は、なかなかタバコが止められなかったのです。
ある朝、ポケットに5銭がありました。当時、5銭だったらタバコが一箱買えるのです。一日のタバコ代。それで、その時に一番上の兄貴がまだ小学生の時だったらしいのですが、「お父さん、今日、5銭がほしいから、ちょうだい。」と言った。ところが、父のポケットには5銭がはっきりとあったにもかかわらず、「これはタバコ代だからやれない。」と断って、それで、兄が泣いたらしいのです。その泣きながら学校へと行く兄の後ろ姿を見ながら、父も良心の呵責を受けたのでしょう。
「おまえはクリスチャンでありながら、教会でも戒めて、禁じているタバコを飲みたいために、その5銭、タバコ代5銭をポケットに入れておいたまま、子どもを泣かして学校に行かせるのか。なんとかして子どもたちに教育を受けさせてやりたい、という固い決心を持っていたんじゃないのか。」と。
そこでタバコを切ったらしいのです。だから、もう84歳になるまで、タバコや酒は全然やりません。趣味がない人でしたね。将棋も何も。一切の個人的な趣味活動はないまま、ただ一生懸命にミシンのペダルを踏み続け、母も熱心に父の手伝いをして、夜はいつも、私の両親は、本当にいつも熱心に針仕事ばかりをやっていました。
その一事でも、私の父の信仰とか、子どもたちへの教育の熱意などがうかがえるのではないかと思うのですけれども。
だから、そのミシンは叩いたら金が出て来る、まるで打ち出の小槌のようでした。本当に、ミシンを踏んだら、たとえ少なくてもお金ができるでしょう。そのお金で、子どもたちを教育させる事ができるのですから。それで、もう60年近くもやって来たでしょうか。
それと、もう一つは、父には時代を見る目があったという感じがするのです。
その当時は、日本が我々を侵略し、合併した時代なのですが、それは我が韓国にとっても、新しい時代が入り始めた時代でした。その中で、父は、「これからの時代は技術だ。技術でなければならない。」と感じた。その事は、やはり正しい見方ではないかと思うのです。
両班(ヤンバン)がミシンをしたり、商売をしたりするのは最も蔑まれる事だったのですが、父はそれを習い、故郷で子どもたちの着物などを作り、市場へ行って、それを広げて売るのです。だから、そのような事を両班の父を知っている故郷の多くの人々の中でやるのですからね。なかなかの勇気ではないかと思うのです。
それから、故郷では子どもたちの教育はできない、やはり都会へ出なければならないという事を考えて、一番上の兄貴をプサンの商業学校の方へ行かせて、一人で下宿生活をさせた。とにかく、その時は、学校で一等などを取ったりして、成績は一番良かったようです。
それで、弟たち、次の者たちも勉強させなければならないでしょう。プサンに行くために準備をしなければならない。その準備金が2、3百ウォンくらいかかるのです。その当時だったら、それは非常に大きなお金で、賄う事がなかなかできなかった。
そして、両親がある日、病院に行った時に、その当時、新しく流行し始めていた食卓のカバーを見たのです。それで「これだったら、家でも作れる」と考えて、食卓のカバーを一生懸命に縫い、それは、百くらい作ったのかもしれません。それを一人一人、知り合いの所へ持って行って、買ってもらったのです。そして、それを集めて、相当な金を作り、プサンに引っ越しする事ができました。
そのようなアイデアなどは、非常に立派なものではないかと思っています。決断も良かった。
それからプサンに行き、最初に泊まった夜は、小さな旅人宿(ヨインスク)でした。部屋一つに家族全員が寝ました。それで、「これから、どうするのか?」と思ったらね、その次の日には、知り合いの人に頼んで、大きな瓦拭きの家を借りて、そこへ移ったのです。そして、そこに何人かの学生を下宿させ、父は兄が通っている商業学校の前に店を借りて開き、そこにミシンを置いて、その当時500名くらいだったでしょうか、その学校に通う学生たちが下校する時、一日中、学校でいたずらなんかをして、履いているズボンなどに穴があいたり、破れたりするでしょう。そり破れたズボンを縫ってあげていたのです。そして、縫い終わったら、3銭とか5銭とかずつ、お金をもらってね。
だから、しばらくしたら、学校の前に15部屋くらいある家を建てました。家を建てて、学生たちも20人くらい集めて下宿屋をし、それで店も作って。兄貴などは、学校では成績が良かったようですが、その当時の学校の先生は、大部分が日本の人たちでした。その時は、京都帝国大学出身の高田邦彦という人が校長をしていたのですが、その奥さんが非常にいい人でね、私たちともよく付き合って、それで、そこの500名くらいの学生の夏の制服などを受け持つ事ができたのです。夏とか秋とかは、制服を縫う仕事が多くて、そういう時は、日本の小倉からも列車で持って来ていました。
そのように何年間かは、ずっと制服を縫う仕事をしたりしていたのですが、後には結局、戦争などがあってからは、父は牛などを引いたりもしたし、いろいろな事をしました。

私は1924年に生まれ、9つの頃、プサンに来ました。
それから学校は、プサンの第二商業学校の方に5年行きました。本当は、私たちの学校は歴史が非常に古いのですが、日本人が来てから、後に建てられた学校の方を「第一商業」と名付け、私たちの学校を「第二」とされてしまったのです。この「第一商業学校」は今、「慶南高等学校」となって残っています。名門です。
私は8つの頃から病気が出て来て、その病気を抱えたまま学校に通っていたのですが、それはやっぱり大変な苦労がありましたよ。自分の病気を隠すのですからね。私自身も、やっぱりよくわからないでしょう。両親が話さないから。でも、小学校の頃から病気の症状が現れて来て、病院へ通ったりもしました。それから、眉毛なども少しずつ取れ始めてね、中学の1、2年生くらいの時は顔形も良かったと思うのですが、やはり、4、5年生頃から良くないのです。身体検査の時などはパンツだけになるでしょう。それが嫌でね。着物を脱ぐ事を嫌って、その間は便所などに隠れていたりもしました。しかし、うすうす知りながらも、お医者さんたちが身体検査で通してくれたのですから、それで学校はようやく終えました。終えましたけれども、自分の中学校の頃は、やはり、いろいろな苦しみがありました。
自分でも病気の事を、これはハンセン氏病であるとは、はっきりとはわからないのですが、うすうす知って行くのです、両親の会話などからね。その時は薬を飲んで。下宿にたくさん人がいても、自分一人だけで食事をするのです。塩と御飯だけの食事をね、毎日。漢方薬というのは、食事の時にいろいろなものを食べてはいけないらしいのです。そして、その薬というのも非常ににがい薬でね。食べた物を、みんな吐き出してしまうくらいに。だから、飲まないで隠したりもしました。
私はクリスチャンでしたが、その時、全校にクリスチャンはあまりいなかった。クリスチャンは非常に反抗的で、反日的であると見られていました。賀川豊彦氏が一度、プサンに説教をしに来た事があったのですが、中学3年生の頃、それに行き、夜帰って来たところを見つかってしまった事がありました。その時、学校の方では、夜間は通行禁止だったのです。それで、その次の日に教務室に呼ばれて、「どうして行ったのか」と叱られた事がありました。
例えば、剣道の時間には、練習の前に一度、全員が列を作って神棚に礼をするでしょう。その時、私は列の一番後ろの方で「自分はクリスチャンなのに、どうしてああいう所に礼をしなければならないのか。」と考えながら、やらないでいた。その剣道の先生が非常に典型的な日本軍人で、固いし、恐ろしい陸軍中尉だったのですが、「敬礼!」と言って号令した後、ぱっと振り向いたのです。だから、私一人が頭を下げないでポツンと座っているでしょう。とても叩かれました。
それと、私の性格的な事もありました。「増田」という英語の先生がいたのですが、その先生が、韓国の学生に対して非常に厳しかったのです。まるで、刑事のようなやり方なのです。刑事のような目で、いつも学生たちの後ろを探るのです。だから、私はそれに反抗してストライキを起こしました。4年生だったか、3年生の頃だったか、一度「行軍」があった時に、その途中で、私が100名ほどを集めて、増田先生の排斥運動をするための連判状を作ったのです。一つ一つ拇印を押して、その連判状を私が書いてね。それを学生の父兄会の会長の所に持って行ったのですが、それは結局、一人の学生の通告のために、ばれてしまって、私は責任を問われて、休学させられてしまいました。それが元で、クリスチャンであって危険分子という事で、卒業するまでの間、高等警察とかにもよく呼ばれたりもしました。何か事件があると、学校で調べないで高等警察の方へ回すのです。だから、何人かでしょう。私の周囲の。それで、私も一回呼ばれて、「池田」という非常に恐ろしい刑事がいましてね。今の北プサン警察署です。その時、そこで私の思想についての取調べがあったりしましたけれども、結局、私の学校の成績が良かったために助かりました。
学校では、増田とか、いろいろな先生からの憎しみを受けていたのですが、また、その一方で、東大出の校長がとてもいい人だったのです。
私の兄が、その学校の5年上の先輩だったのですが、その時、兄が校長に手紙を出してくれて、兄は成績も良かったし、字もとてもきれいでした。内容もいいし、非常な達筆で、しかも日本語で。それで、兄が認められたために、その校長も私を認めてくれて、他の先生から私を守ってくれたのです。
とにかく、そういう事で、私は学校では、行進などをする時には、よくトランペットを吹きながら一番前に出て進みました。自分の体には病気があるでしょう。また、学校からはいつもそういう目で見られるしね、だから、いろいろ…。金もなく、貧しいために、授業料も払えないし、まぁ、そういう事で、私の中学校時代は、あまりパッとしない、暗かったですね。そういう中で卒業をして、やはり、2、3年くらいは病気のために社会から追われて、家で隠れて治療をしていました。
それは、高校を卒業をして、社会に出て、ある所に就職をしたところ、そこで私の病気がわかってしまい、そこから追われたのです。それは、みじめな姿でしたね。家に隠れ、それからお寺に行って隠れ、そして、終戦になり、私は病院に入りました。
広島に原子爆弾が落ち、長崎にも落ち、それから8月15日の朝、「今日は重大放送があります・・・」という。私は、その時にソ満国境でソ連軍が関東軍を追って攻撃をしていましたから、「今日は宣戦布告があるのかな」と思っていたところ、なんか、12時頃にハッとしてラジオを付けたら、あの天皇ヒロヒトさんの降伏宣言が出て来るのですよ。それで、プサンの街は、たちまちのうちに太極旗の群れになったのです。それは、どのようにして、これだけいっぺんに出て来たかわからないうちにね。けれど、私たちはその太極旗も見る事ができなかったのです。私は、それを家の物干し場の上でね、その歓声を聞きながら、その人の波の群れの中に、一緒に入って行く事ができないという悲しみを噛みしめていました。
それから、私は病院に入りました。大邱の「愛楽園」という宣教師の病院です。そこへ行けば、子どもたちもたくさんいるから勉強も教えることができるし、宣教師の下で、もっと良い信仰の指導も受けることもできると、そう思って行きました。
終戦というのは、こちらでは解放でしょう。私たち国民に自由をもたらしたものなのですが、私にとって終戦とは、療養所という一つの刑務所に入れられるという、刑務所とは何ですがね、やはり、特殊な世界に入れられたという、そんな事になりましたね。

[聞き書き:菊池義弘、1992年1月]

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