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韓国における定着村事業の歩み


「癩協」街頭啓蒙事業の展開
一方、大韓癩協会(癩協)は5月中旬に浮浪癩患者13名を発見し、小鹿島病院に収容させた。これに引きつづき癩協・ソウル市支部は、7月中旬に徳寿宮の石垣に「癩病は必ず治る」「癩病は遺伝病でない」というスローガンをかかげて、癩病が天刑病または遺伝病であるという過去の間違った認識を覆し、癩病の初期症状発見と予防をするための啓蒙事業を繰り広げた。約1ヵ月間続いた街頭啓蒙事業は、癩病の初期症状と救癩事業状況などを撮影した20余種の写真を用いて行なわれた。1963年、大韓癩協会は政府と緊密な協調関係を維持しながら、浮浪癩患者の発見事業、定着場拡張事業などを続けて行き、一方、11月30日には定期総会を開いた。
国立保健研究院で開かれた大韓癩協会定期総会は、中央と地方の協会員たちと会員多数が参席するなかで、予定通り11月30日定刻10時に開催された。この定期総会でイ・ビョンハク会長などの会長団はそのまま留任とし、地方理事10名を新たに増員する事となった。また、討議案件においても、1964年度予算と事業計画、そして1963年度決算などを大した異議もなく通過させた。
この日、留任した会長団と任貞名簿は次の通りである。
会長/イ・ビョンハク.副会長/柳駿、ユン・ジンウ。中央理事/ユン・ユソン、イ・ヨンウン、ペ・ギョンウォン、ペ・スングン、キム・ドンファン、バン・スンジュン、車潤根。地方理事/チャン・ビョンファ(京畿)、 ホン・チョンウム(忠北)、オ・ミョンスン(全北)、ユン・ドウギョン(釜山)、チャ・モンホ(ソウル)、申汀植(全南)、ソ・スンボン(ソウル)、シム・チャンヨル(慶南)、パク・ヒョンシク(江原)。
年が変わって1964年になっても、癩協会の事業は1963年度と大きな差異もなく施行された。
1964年3月9日、ソウル市内の「コリア・ハウス」で延世医大微生物学教室の主任教授であり、大韓癩協会の副会長である柳駿氏を祝うパーティーが開かれた。
韓国キリスト教宣明会が主催したこのパーティーでは、世界キリスト教宣明会の駐韓総裁であるピオルス博士が柳駿教授の功労を祝福して、世界キリスト教宣明会の総裁から授与された賞状を伝達した。
この賞状は世界キリスト教宣明会が19657年に制定したもので、毎年キリスト教精神によって人類愛を花咲かせた人をその年の人物として選ぶものだが、その受賞者の第1回目は、韓国の戦争孤児を助ける仕事に大きく貢献したペク・ソンヨプ隊長であり、第2回目は、台湾の未開人たちを啓蒙したジェームス・ディクソンであり、そして第3回目が柳駿教授だった。このように1963年度と1964年度にかけての救癩事業は、全ての関係者たちが学術面や事業面において、とても活気を帯びた時期だったと評価されている。

未感染児童の就学問題
陰性癩患者の定着事業以後、癩患者の子女たち、いわゆる未感染児童たちの就学問題が大きな問題として台頭していた。この未感染児童の登校問題は、1964年3月、全羅南道・麗川郡にある栗村国民学校で起こった。学生たちの登校拒否によって表面化するに至った。
この問題の発端は、1964年3月、新学期を迎えた全羅南道・麗川郡・栗村面・新豊里にある栗村国民学校に陰性癩患者村に住む李永順さんが入学した事に始まった。李さんの登校は「ムンドゥンイ(ハンセン氏病者に対する蔑称)と共に住んでる子とは一緒に勉強をさせる事はできない。」という父兄たちの反感を買う事となり、ついに全校生徒577名中、400余名が欠席をするようになり、極少数だけが登校をし、学校は休校状態に陥った。これに対して大韓癩協会は、本部職員1名と全羅南道支部長を直接現地に急派して、父兄たちを啓蒙しつつ、学生たちの登校を促したが、父兄たちは自分たちの主張を曲げないまま、20余日が過ぎても授業ができない状態が続き、ついに校長は「1人の児童によって、500余名の児童が大変に大きな犠牲を受けているため、定着村側に譲歩を願う。」と言い出す事によって、結局、未感染児童の登校問題は大きな難題として残されてしまった。
このような陰性癩患者・定着村児童たちの就学問題は全国あちこちで発生し、癩協会はもちろん、政府にとっても頭痛の種となっていたが、4月の始めに大韓癩協会は、頻繁に発生している癩治癒陰性患者たちの子女の就学拒否事件に対する打開策として、国立機関と協会が主管している国内癩患者管理を一貫して紹介する事によって一般からの協調と理解を求めた。
大韓癩協会は1964年4月現在、全国の癩患者数を10万名と推算し、この中で国立病院に収容されている者が8760名、私立病院には1592名、在宅患者が10049名、治癒陰性者として定着している者が9760名で、総計30161名が登録されていると発表した。癩協会は「この登録されている患者は、政府や癩協の移動珍療班、または民間事業機構によって治療を受けており、ここに付随した問題として事件の核心を成している癩病治癒者の子女たちの管理についても長期的な検診によって徹底を図っている」と語った。
この癩病治癒者の子女たちについて、癩協会で掌握している数は4572名で、この内、国民学校の児童が1767名、中学校が497名、高等学校が52名、それぞれ在学中であり、未就学児童が2202名、その他が45名だった。この他にソウル市では宣明会特殊皮膚診療所が運営する特殊皮膚診療所と、保健所に自進登録して治療を受けている患者の数が900名程度だった。
大韓癩協会はこのようにいろいろな統計を基礎として全国の患者が10万名であると推定し、当時の人口が2700万名であった事を考え合わせて、270名に1名の割合で癩患者が全国に散在しているという結論を出した。大韓癩協会はこのように発表すると同時に、今後は癩病治癒者子女たちの呼称を「未感染児童」でなく「癩病治癒者子女」と呼ぶ事とした。
一方、1964年度の癩協会費は4800万ウォンと立てたが、この数値は全国に散在している200余万名の会員たちから1人当たり20ウォンずつ集める事であったため、政府からさらに約200万ウォンの補助を受け、1964年度の予算を総計して5000万ウォンとした。
そして癩協は1964年度の事業として、
陰性癩患者の定着事業(582万ウォン)
在家癩患者の登録事業(811万ウォン)
定着癩患者の補助事業(1000万ウォン)
啓蒙事業(1128万ウォン)
浮浪患者の移送事業(170万ウォン)
未感染児童の保育事業(114万ウォン)
などを立てた。
この中で、特に定着者補助事業として、それまで政府が施行した定着事業の内、不充分な否決議補助として、陰性癩患者たちの取得のために1人たり1000ウォンずつ策定し、400万ウォンが計上され、啓蒙事業としてはラジオドラマと映画製作事業があり、在家患者の発見、及び治療には多くの予算上の配慮をした。癩協は全国民からの癩患者発見率が、人口1000名の中で3名であるとし、ソウル市内でだけでも自進登録実施以後、2000名の患者たちが自進登録したと明らかにした。
大韓癩協会は特に未感染児童たちの就学拒否に刺激を受け、「癩病は薬物治療さえすれば、むしろ結核より良く治る」という点を強調し、全国民を対象にしてさらに強力な啓蒙活動を締り広げて行った。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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